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六幕 おかえり

 森を抜けた先、光の差す場所で――五郎丸が、ふいに足を止めた。

耳を立て、低くひと声鳴く。


「……やっぱここだったか」

 気だるげな声とともに、木陰から一人の男が現れる。


 濃紺の着流しに、崩した髷。

口元には煙管をくわえている。


 味坂(あじさか)だった。


 視線はまず五郎丸へ、そして――戌助(いぬすけ)たちへ移る。


「ずいぶん奥まで入り込んでるじゃねえか」

 先ほどと同じ気だるげな調子だった。

だが、目だけは笑っていない。


「五郎丸を探していたんですか」

 戌助が言う。

「まあな」

 味坂は短く答え、ふと視線を落とした。


 戌助の手元。

そこにあるものに、目が止まる。


 鍵。


 煙を吐く手が止まった。


「……それ、どこで手に入れた」


「森の奥で、ある方から」


 戌助はそれ以上言わない。

味坂も聞かず、ただ目を伏せる。


 沈黙。


「……そうか」


 その声には、妙に納得した響きがあった。


「借りは作らねぇ主義なんだがな。 ……案内する」


 戌助は顔を上げた。


「心当たりがある。ついて来い」


 五郎丸が、それに続いた。




 地図に載らぬ辺境の谷を抜け、やがて辿り着いたのは、岩肌に囲まれた細い窪地だった。


 自然の裂け目のように見えるその奥に――確かに、人の気配がある。


「……ここだ」

 味坂が低く言った。

「元は、俺の連中が使ってた隠れ場だ」


 稲吉(いなよし)の眉間に、深く皺が寄る。

「“元は”?」


「ああ」

 味坂は煙管をくわえ直し、短く煙を吐いた。


「とっくに足は洗わせた。だが、最近様子がおかしい。急に消えたやつがいる。

そいつらが――また盗り始めた」


 ムツが問う。

「理由は?」

「知らん」


 即答だった。


 味坂の声が沈む。

「だが――妙なんだよ。 俺のことを覚えてねぇ」


「……は?ふざけてんのか」

 稲吉が、じろりと味坂を見る。

味坂は首を振る。

「いや、あれは本気で忘れてる目だ」


 紫煙が、木々の間へ細く流れていく。


「家族同然だった連中が、だ」


「名前も、顔も――最初から何もなかったみてぇにな」


 ムツは怪訝な顔をしたまま、小さく息を吐く。

「……では、交渉は無理ですね」

「ああ」


「じゃあ簡単だな」

 稲吉の切れ長の目が、鋭く細められる。


 どこか少年らしさの残る面差しのまま、

「全員つぶす。分かりやすくていい」

 冷えた声が落ちた。


 戌助が前へ出る。

「入口は――あそこだけ?」


 指した先、正面の細道には見張りが数人。


「いや、正面はやめとけ。回り込む」


 味坂の言葉に、稲吉が鼻で笑った。

「回り込んでる間に何かあったらどうすんだよ」

 声に、わずかな苛立ちが混じっている。


 味坂が横目で見る。

「……また焦ってんな」

「うるせぇ」

 言い終わる前に、叩き切るような即答だった。


「……攫われてんだぞ」

 舌打ち混じりに言う 。


 だが返事はない。


「おい、攫われてんだぞ!」

「うるっせぇな、わかってる! なんで二回言うんだよ!」


 味坂は子供を叱るように返したが、稲吉は止まらない。

「年寄りのぐだぐだに付き合ってる暇はねぇんだよ!」


「……こいつ、いつもこうなのか?」

 味坂が呆れたように言う。


 戌助は無表情のまま、ゆっくりと目を閉じた。


 味坂は深いため息をつき、視線を落とす。


 戌助の手元。


 鍵。


「……それ、貸せ」


 戌助は迷いなく差し出した。

味坂は鍵を受け取ると、 岩壁の一角へ歩み寄る。


 一見すれば、ただの苔むした岩。

だが指先で継ぎ目をなぞると、岩陰に隠れていた小さな鍵穴が現れた。


「……残ってたか」

 小さく呟き、鍵を差し込む。


 ぎ、と乾いた音が響いた。


 岩が内側へとずれ、暗い隙間がゆっくりと口を開けた。


 味坂が苦々しく言う。

「俺と――昔の連中しか知らねぇ入口だ」


「五郎丸、お前はここで待ってろ」

 五郎丸の頭を、くるりと撫でた。


「行こう」


 戌助は、ためらいなく闇の中へ滑り込む。

その背を追うように、三つの影が音もなく続いた。




 中は湿った空気がこもっていた。

細い通路を抜けた先、奥は存外広かった。


 やがて、灯りと気配が三つ。

そして、見覚えのある影がひとつ。


 味坂が指で合図し、戌助が目だけで応じる。

配置は一瞬で決まった。


 岩の裂け目から、瑠璃色の花弁がひとひら舞い込んだ。


 ムツは、呼吸を整えた。

「殺さずにやろう。」

 稲吉がちらりと見るが、その視線はすぐに目標へ戻された。


「行くぞ」


 ――次の瞬間、影がほどけた。


 最初に沈んだのは、入口近くの男だった。


 背後から滑り込んだムツは、首筋へ一撃を落とし、音もなく意識だけを刈り取った。


 倒れた男の呼吸を確認し、ほんの少し安堵の表情を浮かべた。


 だが、その背後で、もう一人が気づいていた。


「おい――」


 振り向きざま、刃が振り下ろされる。


 ムツの反応が、わずかに遅れる。

(まずい――)


 その瞬間。


「――甘い」

 低い声と同時に、苦無が横合いから飛んだ。


 キィン、と乾いた音。

敵の手首が正確に弾かれ、刃が宙を舞う。


 稲吉が滑り込む。

間合いを詰める速さは、ほとんど踏み込みと同時だった。


 肘で顎を打ち上げ、崩れたところへ足払い。

さらに、倒れ際の首元へ刀を突きつける。


 一連の動きが、ひとつの流れのように繋がっていた。


「……っ」

 男は声も出せずに地に沈む。


 ムツは、目を丸くしたまま固まっていた。


「何やってんだ。迷ってる間に死ぬぞ」

 稲吉は振り返らず、吐き捨てる。

その言葉は容赦がなかったが、幼いころから何度も聞いてきた声だった。


 ムツは、何かを言いかけて――言葉を飲み込んだ。

「……ん」


 稲吉はそれ以上何も言わず、次の気配へ視線を移していた。


 その先で、空気が沈む。


 奥の一角だけが、不自然に開けていた。


 湿った土の上に、影がひとつ。

大柄な男が、ゆらりとこちらを向く。


「……誰だ」

 般若面の奥から、低い声が落ちた。


 味坂は肩をすくめた。

「やっぱり、か」


 煙管を指で弾き、咥える。

「その面――誰の趣味か、覚えてないのか?」

 男は首をかしげ、迷いなく返した。

「……知らねぇな」


 味坂は、ふっと笑った。

「だろうな」


 そのまま、踏み込む。


 地が鳴る。


 先手は味坂だった。

重い一撃が正面から叩き込まれ、受けた男の足が、沈んだ。


 二撃目。

三撃目。

間合いは、完全に味坂のものだった。


 だが――その隙。


 ほんの一瞬、刃の戻りに生まれた空白へ、男が踏み込む。


 狙いは首。

確実に仕留める軌道だった。


 ――そのはずだった。


 斬れない。


 刃が、ずれる。


 弾かれた感触はない。

受け止められた手応えもない。


 ただ、狙ったはずの線から、“外れている”。


「……?」

 男の目が揺れる。


 視界の端に、何かがいた気がした。


 次の瞬間には――そこにいる。


 戌助だ。


 いつからかも分からない。

踏み込んだ音も、気配もない。


 ただ、そこに“滑り込んでいる”。


 触れたのは、ほんのわずか。

刀身に、そっと指を添えたような。あるいは、風が撫でたような。

それだけで、軌道が逸れていた。


 味坂の目が、細くなる。

「……今のは」


 戌助は何も言わない。


 ただ、一歩。

いや、半歩。

流れるように前へ出る。


 花弁が、ひとひら落ちる。


 それよりも自然に、男の間合いが崩れていく。


「……何だ、お前は」

 低い声。


 だが、その問いに答えはない。


 戌助はただ、そこに“在る”。


 味坂は、口の端を上げた。

「……なるほどな」

どうやら、自分は見誤っていたらしい。


 味坂が一歩引いたその瞬間、戦いは変わった。


 戌助が踏み込む。

だが、それは踏み込みではなかった。

ふっと風が揺れ、鳥が飛び立った後のように静けさだけが残った。


 ――茜色の袖がほどける。

小さく散った桜の文様が、男の視界の端で揺れた。


 捉えたと思った影が、次の瞬間には、もう別の場所にいる。


 力任せに振るった重い一撃。

だが当たらない。男の刃が、空を切る。


 何度振るっても、そのたびに影は指の隙間からこぼれ落ちた。


「……ちっ!」

 焦りが滲む。


 戌助は、ただそこに立っているだけなのに――決して触れられない。


 花弁がまたひとつ、ゆるやかに落ちる。


 その間に、無駄も迷いもなく、

“置かれた”一手で、男の足がかすかにずれる。


 戌助は、重心が崩れたその一瞬を逃さない。


 す、と。


 触れるような一撃。


 男の体が、地に沈んだ。


 花弁が、ようやく地に触れる。


「……」

 戌助は何も言わない。


 刀を振り収める厳かな音だけが、その場に響いた。


 味坂は、その横顔を見て小さく笑った。

「……何者だよ、お前」


 その声には、呆れと、わずかな興味が混じっていた。


 奥。


 まだ、ひとつだけ気配がある。


 動かない影。


 縛られたままの――

「……コウ」

 稲吉の声が低く落ちた。


 駆け寄ると、コウが顔を上げた。


 一瞬、視線がぶつかる。


「バカ! 遅すぎるのよあんたたち!」


 縄を斬る稲吉の手が止まる。


「何やってたの!? 山何個越えてきたの!?迷子!?」

「いや迷ってねぇよ!」

 思わず言い返す。


「何よ!里一番の忍が聞いて呆れるわ!」

「そっちこそ、少しは殊勝にしてろ!

思ったより元気で助け甲斐ねぇだろうが !」


 ムツが後ろで吹き出した。

「ふっ……」


「笑うな!」

 コウと稲吉の声が重なる。


 そのやり取りの最中、縄が切れ、コウの体が前に崩れる。


 そのまま――どん、と稲吉の胸を叩く。

「……ほんっとに遅い……!」


 もう一度、叩く。

「遅いよ……」


 声が、揺れる。


 三度目は、弱かった。

そのまま、額が当たり、稲吉の胸に体を預けた。


 沈黙。


 稲吉は――動かず、ただ立っている。


 視線を落とす。


 乱れた髪。額の傷。

胸元へ押し当てられた手が、かすかに震えていた。


 一呼吸。


 もう一呼吸。


 そして――


 ほんのわずかに、左腕が動いた。


 触れるか触れないか迷うような距離で、肩へ手を添える。


「……わり」


 コウは何も言わず、少しだけ力を抜いた。


 背後で、味坂が倒れた男を見下ろしていた。

「……全く、全部抜け落ちてやがる」


 戌助が静かに応じる。

「“忘れている”のではなく――“削られた”のかも」


 味坂は、浅く息を吐く。

「どっちにしろ、ろくでもねぇのが裏にいるな」


 そのとき。


「――オモイダシテ」


 暗がりで、かすかな声がした。


 全員の動きが、止まる。


「……今の」

 ムツが低く呟く。


 部屋の隅。

籠に捕えられたキジが、こちらを見ていた。


 コウが、はっと息を呑む。


 味坂が目を細める。

「おいおい、なんだありゃ」


 キジはじっとこちらを見たまま、もう一度だけ、同じ言葉を繰り返す。


「ワタシヲ、オモイダシテ」


 味坂は、ゆっくりと腰を落とし、視線を向けた。


 倒れた男。


 そして、キジ。


 煙管を取り出すが、火はつけない。

指先でくるりと回し、口元だけで笑った。


「……問題は、もっと根深いらしい」

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