五幕 散らぬ花の記憶
「これは、ただの昔話です」
要は、五郎丸の背を撫でながら語り始める。
「私は……物心ついた時から、廓で育ちました」
わずかに間が空く。
「意に添わぬ客を取り、
嘘でできた世界で生きてきました」
視線が、ふと窓の外の森へ向く。
瑠璃色の花が、風に揺れていた。
「……ある日、すべてが嫌になって」
声が、その景色に吸い込まれるように薄くなる。
廓を抜け出した先は、人気のない静かな森だった。
瑠璃色の花が、木々のあいだに揺れている。
外の気配が遠のき、安心感すら覚えた。
「逃げて、逃げて、――気づいたら、この花の森に辿り着いていました」
「そして、ここで……味坂様と出会いました」
その名を口にした瞬間、要の視線が揺れる。
あの人は、同じように傷を抱えていた。
逃げてきたのか、追われてきたのか、それすら分からないまま、そこにいた。
ただ一つだけ分かったのは、この人もここにいるべき人ではないということだった。
「放っておけませんでした」
気づけば手当をしていた。
気づけば、そこに“日常”ができていた。
――そのうち、もっと陽の当たる場所で暮らそうや。
そんな約束も、最初は冗談のようだった。
だが、その日常は長く続かなかった。
ある日、森の外から人の気配がした。
要の声が落ちる。
目はもう、戌助たちを見ていない。
「……追手でした」
それまで守られていたはずの場所が、一瞬で“隠れ場所”へと変わった。
味坂は無言で立ち上がると、彼らにひとつの荷を差し出した。
行商の道具ではない。
金だった。
奪ったのか、集めたのか、その境目さえ曖昧な大金。
「さ、これでおまえさんは自由だ」
そこで初めて、要は気づいた。
噂に聞いていた般若面の盗賊――
それが、この人なのかもしれないと。
その時、味坂は視線を一度だけ要へ向けた。
確かめるような、見透かすような目だった。
「俺は……もう、ここにいる理由はないな」
味坂は背を向けた。
その動きは静かで、迷いがなかった。
要は、思わず声を上げていた。
「まだ、怪我……治ってないですよ!」
その一言で、時間が止まった。
味坂は足を止め、ゆっくりと振り返った。
そして懐から般若面を取り出すと、何も言わずに顔の前へと重ねて見せた。
それは、正体を隠すためでも、脅すためでもなく。
ただ、自分というものを受け入れるような仕草だった。
要の胸に、ひとつの確信が落ちる。
けれど不思議と、恐れも拒絶も生まれなかった。
それよりも強く湧いたのは、もっとこの人を知りたいという感情だった。
「黙っていてすまなかった」
面の奥から、低い声が落ちる。
味坂はそれだけ言うと、一歩だけ要から距離を取った。
だが。
「入って」
要は、困ったように目を細めて、ふっと笑った。
春風のように力の抜けた、やわらかい笑みだった。
味坂の呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
面にかけていた指が緩み、ゆっくりとそれを外した。
その下にあったのは、驚きとも安堵ともつかない顔だった。
要は、味坂へ歩み寄る。
味坂は何も言わなかった。
だがその視線だけが、行くべきか、留まるべきかを量るように揺れていた。
沈黙が落ちる。
花の揺れる音だけが、遠く聞こえた。
やがて味坂は、袖へ手を入れる。
取り出したのは、古びた鉄の鍵だった。
使い込まれたその鍵を、味坂はしばらく黙って見つめていた。
まるで、自分の過去そのものを見るように。
そして、要へ差し出す。
「……アジトの鍵だ」
「もう、俺には必要ない」
要は、小さく目を見開いた。
けれど何も言わず、その鍵をそっと受け取った。
「それから――」
要は、そこで一度言葉を止めた。
五郎丸の背を撫でる指先だけが、かすかに動いている。
「味坂様は、怪我が癒えたあとも、五郎丸と一緒に何度もここへ来てくださいました」
「けれど……私は、変わってしまいました」
手が、止まる。
その目は、もう諦めに近かった。
病は、静かに体を侵していた。
抗うほどの力もなく、ただ少しずつ、日常を削っていくように。
「だから……思ったんです。
せめて、あの人の記憶の中では……きれいなままでいたいと」
戸は、開けなくなった。
要の声が、わずかに揺れる。
「それでも、あの人は……待っている、と言いました」
――あの日。
返事のない戸口に向かって、味坂はただ言葉を置いていった。
「陽の当たる場所で暮らすって、言ったろ」
「……覚えてるか」
「……待ってるからな」
それきり、足音は遠ざかっていった。
要は戸口の向こうで、黙って鍵を握りしめていた。
語り終えた今も、それは細い指の中に残っている。
「これが……その鍵……」
戌助が呟く。
稲吉が鼻を鳴らした。
「その唐変木、まだあんたのこと待ってるぜ」
風が、花を揺らす。
「……そう、ですか」
崩れそうで、崩れない声だった。
安堵と、恐れと、どうしようもない未練が混ざっている。
稲吉は目を細めた。
「あんた、会わずに死ぬ気か?」
要は、少しだけ唇を引き結んだ。
「離れたら終わりだろ」
「離すなよ」
「……大事なんだろ」
それは要に向けた言葉でありながら、
どこか、自分に言い聞かせている響きでもあった。
だが――
要は、ゆっくりと首を振る。
「……私は、行きません」
声は穏やかで、揺らぎがなかった。
「この話を聞けただけで……十分です」
頭を下げる。
「ありがとうございます」
要の瞳から、涙が一筋落ちた。
それは礼というより――
自分の中に抱え続けてきたものを、受け取ってもらえたことへの言葉だった。
そして、そっと鍵へ視線を落とした。
「それが役に立つかは分かりませんが……」
「どうか、その方を――助けてあげてください」
沈黙が落ちる。
そのあと、要は戌助にだけ、そっと声を落とした。
風に溶けるような、小さな声だった。
戌助はその言葉を受け取ると、何も言わず目を伏せた。
五郎丸が一度だけ鳴き、三人は外へ出る。
森の花が、何事もなかったかのように揺れていた。
その背を見送りながら、老婆がぽつりと漏らす。
「……女心の分からん青二才だこと」




