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四幕 瑠璃の森

 もう、どのくらい歩いただろうか。


 最初はただの林だった。

 だが進むほどに、空気が少しずつ変わっていく。


 真昼の日差しは木々に遮られ、林の中は薄暗い。

 風に揺れる木漏れ日だけが、足元へまだらな影を落としていた。


「……なんか、妙だな」

 稲吉(いなよし)がぼそりと呟く。


 鳥の声はいつしか遠のき、耳に残るのは、風が梢を渡る音ばかりだった。


 そんな違和感をよそに、黒柴は迷いなく歩き続ける。


 木々は次第に背を伸ばし、密度を増していった。

やがて、瑠璃色の花が闇の中に淡く浮かびはじめる。


 木蓮にも似た花が、枝に連なり、木を包むように淡く瑠璃に光っていた。


 まるで、闇の中へ灯された火のように。


「……きれいだね」

 戌助(いぬすけ)がぽつりと漏らす。


 ムツも花を見上げた。

「ええ、花というより……光に近いですね」


 そのとき、黒柴がひと声だけ鳴いた。

戌助が視線を道の先へ戻す。


 その先、花に埋もれるようにして、小さな家があった。


 苔に覆われ、屋根も壁も長い時間を吸い込んだように緑に沈んでいる。

近くを流れる湧き水の音だけが、妙に澄んで静寂を際立たせていた。


 黒柴が、その前で止まり、短くもう一度鳴く。


 しばらくして、戸がゆっくりと開いた。


 中から現れた老婆は、一瞬、言葉を失ったように目を見開く。

思いがけないものを見た者の顔だった。


「……五郎丸、かい」


 掠れた声が、花の匂いの中へ静かに落ちた。


 黒柴――五郎丸はただ一度だけ、短く鳴いた。

それは、ただ名を呼ばれて応じたのではなく、“ここだ”と示すような音だった。


 老婆はしばらく五郎丸を見つめていたが、やがて口を開く。

「……そうかい。 あんたたち、あの男の知り合いだね」


 稲吉の眉がぴくりと動き、戌助は静かに頷いた。


「要(かなめ)」


 老婆の呼びかけに、家の中から少し遅れて返事が返ってきた。


 咳に混じった、か細い声。


 老婆は戸をさらに開けると、手で中を示した。

「こちらに来なさい」




 中は暗く、より静寂に包まれていた。

光はほとんど入らず、花の匂いだけが濃く沈んでいる。


 その奥に、布に包まれた小さな寝台があった。


 要は、そこにいた。


 立つことはできない。

それでも、顔だけは静かにこちらへ向けていた。


 戌助たちは、思わず言葉を失った。


 稲吉だけが、一歩遅れてその場に入った。


 その瞬間だった。


 稲吉の眉が寄った。


 呼吸の乱れ、皮膚の紅斑、目の奥の濁り。

職業的な“理解”が、無意識に形を取っていく。


「……梅毒か」


 老婆が淡々と返す。

「私が面倒みてるのさ。もう長くは持たないよ」


 稲吉の喉が、一度だけ動く。

何か言おうとして、結局、言葉にならなかった。


 五郎丸が、静かに歩み寄る。

迷いなく要のそばに座ると、その頭を嬉しそうに下げた。


 要は細い手をゆっくり持ち上げ、ためらいもなく、その毛並みに触れた。


「……五郎丸!」

 要の声が震える。


 その瞬間、要の目から一筋、涙が落ちた。


 止める間もない。


 悲しみというより――

長い間閉じ込めていたものが、溢れたような涙だった。


 戌助は、静かに口を開いた。

「私たちは、人を探しています」


「味坂(あじさか)さんが、きっと何か知っているはずなんです」


 わずかに言葉を探すように間を置いた。


「――要さんは、味坂さんをご存じですよね」


「どんなことでもいい。

手がかりが欲しいんです」


 その声はただ、切実だった。


「仲間の……大切な人の命がかかっています」


 その言葉で、要の呼吸が止まる。


 五郎丸が、そっと要の手に頭を寄せた。

要は視線を落とし、自分の指先がかすかに震えているのに気づく。


(……あの人が、まだ、近くにいる)


 胸の奥で、しまい込んでいた想いがほどけかける。


 思い出せば、きっと。

あのとき選んだはずの覚悟が、揺らいでしまう。


 だから、名前も、声も、約束も。

すべて、触れない場所へ押し込めていた。


 それが――今。


 要は、小さく息を吸った。

そして、ほんの少しだけ微笑む。


「……そうですか」


「なら――聞いてほしいことがあります」

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