七幕 澱みの終わり
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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障子が閉まる音と同時に、尚之は足早に部屋へ戻った。
戸を閉め、灯りを引き寄せる。
そのまま文机の前へ膝をついた。
片膝を立てたまま紙を広げる。
墨。筆。迷う暇はない。
小郡襲撃は、若頭就任の翌朝。
夜明け前までに届けば、まだ間に合う。
(止める)
その思いだけが、今の尚之を動かしていた。
筆を取る。
墨が紙を滑った。
――兵を退けろ。
短く、簡潔な命。
本来なら、父へ直に訴えるべきなのだろう。
だが、尚之には分かっていた。
父は、もう止まらない。
ならば必要なのは、説得ではない。
“八坂自身が撤退を命じた”と、兵たちに信じ込ませること。
尚之は父の筆跡をなぞるように筆を走らせた。
右へ流れる払い。癖のある跳ね。
幼い頃から見続けてきた字だ。
手は迷わない。
一枚目を破り捨て、さらに書き直す。
やがて、灯りへ透かした紙を見て、尚之は小さく息を吐いた。
――これなら通る。
つい先ほどまで、平次郎を討つことだけを考えていた。
小郡を滅ぼし、復讐を果たす。
それだけを支えに生きてきたはずなのに。
脳裏へ浮かぶのは、雪明かりの中の白い姿だった。
ぎこちなく紅を引かれ、鏡の前で戸惑っていた顔。
――……きれいだ
あの言葉を、今はもう打ち消そうとは思わなかった。
それに――
『お前のために、若頭になることを決めたんだ。』
稲吉の声が、まだ耳に残っている。
尚之は眉を下げて笑った。
「……敵わないな」
あんなふうに信じられてしまったら。
もう、壊せない。
書き終えた文を畳み、指で折り目を押さえる。
そして、懐から小さな笛を取り出し、夜気へ向けて静かに吹いた。
音ともつかぬ微かな響き。
ほどなくして、障子の外へ鳥が降りる。
尚之は迷いなく文を括りつけた。
「頼む」
尚之は腕を上げた。
鳥は雪の舞う夜空へ飛び立った。
闇へ吸い込まれていくその姿を見届けながら、尚之はゆっくり息を吐く。
これで終わる。
もう、誰も死ななくていい。
戌助も――泣かなくて済む。
胸の奥に張りついていた黒い澱が、少しだけほどけていく。
尚之は踵を返した。
次は、戌助のところへ行かなければならない。
あの子に話したかった。
戦が終わった先のことを。
いつか、本当に、自分の生きたいように生きられる日のことを。
障子を開けると、冷たい雪の気配が流れ込む。
尚之は静かに廊下へ踏み出した。
もう、振り返らなかった。




