六幕 知っている顔
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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背後から落ちた声に、尚之の足が止まる。
雪の残る細道。篝火の明かりも届かない闇の中に、稲吉が立っていた。
「探してるのは、俺か?」
静かな声だった。
尚之は、ゆっくりと息を吐く。
「……君は、気づいてしまったんだな」
「……」
稲吉は答えない。
ただ、その目だけが鋭く細められていた。
尚之は腰の刀へ手をかける。
その瞬間。
目の熱が、すうっと消えた。
まるで何かを切り捨てるように。
「私は、志半ばで死ぬわけにはいかない」
鯉口が鳴る。
「すまないが――消えてくれ」
次の瞬間、地を蹴った。
鋭い斬撃が闇を裂く。
火花が散った。
稲吉が咄嗟に受け流す。
「っ……!」
重く、速い。
けれど尚之の動きには、奇妙な静けさがあった。
怒りも熱もない。
ただ、“殺す”ためだけの刃。
その殺気に、稲吉の背筋が粟立つ。
刃が擦れ合う。
足元の雪が蹴り散らされる。
「お前を遣わしたのは誰だ!」
稲吉は間合いを詰め、低く斬り上げた。
尚之が身を翻し、そのまま印を結ぶ。
「黙れ」
空気が、変わる。
瞬間――轟音とともに、濁流のような影が、闇の中から現れた。
巨大な津波。
雪も、地面も、家々の影さえ呑み込む勢いで迫る。
「――っ!!」
思わず足が止まった。
だがそれは、ただの幻ではなかった。
押し寄せてきた瞬間、知らない記憶が雪崩れ込む。
戦の怒号の中、苦しげに息を吐く男。
冷たい海へ沈みながら、こちらを見上げる目。
諦めたように笑う顔。
助けを求める声。
そのどれにも、手が届かなかった。
——痛みだけが、そのまま流れ込んでくる。
そして、すべてを奪った相手への憎しみまで。
化野平次郎。
その名だけが、尚之の中で黒く沈んでいた。
(これ……!)
稲吉の膝が沈む。
(……こんなもん、ずっと抱えて……!)
息が詰まる。
視界が歪んだ、その隙だった。
尚之の気配が、ふっと近づく。
「――っ」
次の瞬間には、もう目の前で刀が走る。
稲吉は反射的に身を捻るが、避けきれない。
火花。
二手、三手。
鋭い斬撃が休みなく迫る。
やがて背が石壁へぶつかった。逃げ場がない。
尚之の腕が壁際を塞ぐように振り抜かれ、刃が喉元すれすれで止まる。
ひやりとした冷気が、肌を撫でた。
距離が、近い。
互いの呼吸が触れそうなほどに。
稲吉は歯を食いしばる。
それでも視線だけは逸らさなかった。
(来る――!)
ぎゅ、と奥歯を噛みしめ、目を閉じる。
――だが。
いつまで経っても、刃は落ちなかった。
「……!」
尚之の手が、止まっていた。
目の前の稲吉の顔を見たまま、動けなくなっている。
その瞬間。
――尚之、おいで。
尚之の脳裏に、ひとつの声がよぎる。
柔らかな手。
あたたかな眼差し。
その声に、稲吉の顔が重なる。
(ああ……似てるんだ……あの人に)
迷いが生まれた、その一瞬。
稲吉の膝が尚之の腹へ突き上がった。
「ぐっ……!」
体勢が崩れる。
刀が弾かれ、尚之の身体が雪の上へ叩きつけられた。
稲吉は即座に馬乗りになり、刃を喉元へ突きつける。
完全に、形勢は逆転していた。
尚之の喉が、小さく上下する。
額には汗が滲んでいた。
呼吸が浅い。
死を、理解している顔だった。
それなのに。
稲吉を見上げるその目は、妙に切なげだった。
まるで、別の誰かを見ているような。
「……」
稲吉の眉が、わずかに寄る。
(なんだ、その顔……)
刃先が、ぴたりと喉へ触れる。
その時だった。
――パンッ!!
夜空に花火が咲く。
遅れて、子供たちの歓声が響いた。
赤や金の光が、一瞬だけ二人の横顔を照らす。
張り詰めていた熱が、ふっと緩む。
雪が、はらりと落ちた。
やがて稲吉が、小さく息を吐く。
「……今はまだ、生かしておいてやる」
「お前が居なくなったら、戌助が悲しむからな」
その言葉に、尚之の目が揺れた。
稲吉は、構えを解く。
刀をゆっくりと納めながら続けた。
「でも、一つだけ約束しろ。
――戌助を、二度と裏切るな」
そこで初めて、稲吉は吐き捨てるように言った。
「……あいつはな、お前のために、若頭になることを決めたんだ」
尚之の呼吸が止まる。
「……」
「元々そんなもん、なりたくなかったんだよ」
夜風が吹く。
尚之は、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
やがて、ゆっくり目を伏せる。
「……わかった」
「……約束する」
稲吉の表情が、わずかに緩んだ。
「来い。傷、診てやる」
稲吉の部屋は、宴の喧騒から少し離れていた。
戸の向こうで、遠く花火の音だけが小さく響いている。
卓の上には、薬箱と包帯。
稲吉は面倒くさそうに腰を下ろすと、尚之の腕を掴み、浅く裂けた傷を確認する。
その横顔を見ながら、ぽつりと尚之が言う。
「……戌助は……君たちにとって、本当に家族なんだね」
稲吉は鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。血なんか繋がってなくても、そういうもんだ」
その言葉に、尚之の視線がふっと遠くへ向く。
雪明かりの滲む障子を見たまま、どこか別の景色を思い出しているようだった。
「……昔、私にも、そう言ってくれた人がいた。
私を育ててくれた人だ。母親代わりみたいな人でね」
小さく笑い、包帯を巻く稲吉に、視線を落とす。
「君、よく似てるんだ。その人に」
「は?」
「目元とか。怒った顔とか」
「嬉しくねぇ……」
稲吉が嫌そうに眉を寄せる。
尚之は、その反応がおかしかったのか、少し肩を揺らした。
「昔、よく叱られたよ。“尚之、また無茶して”って」
懐かしむように目を伏せる。
「お七さんは、そういう人だった」
部屋から、音が消えた。
稲吉の目が、大きく見開かれる。
「……は?」
立ち上がりかける。
「お前、今なんつった」
「え?」
「七って……お七って、あの七か!?」
掴みかからんばかりの勢いだった。
「そいつ、俺の母親だ!!」
掠れた叫びは、まだ少年の響きを残していた。
尚之の目が揺れる。
「……君の?」
「知ってんのか!? 七と関わりのあった岩倉武士を! 何でもいい、覚えてることないのか!」
必死だった。
尚之はゆっくり首を振る。
「……すまない。私は、お七さんの身の上を詳しく知らないんだ」
稲吉の拳が震える。
「七は……岩倉に捕まって処刑された」
「死ぬ時、処刑人の男に向かって、“呪ってやる”って言った」
卓へ視線を落とす。
「俺はずっと、その相手を探してる」
自嘲するように笑う。
「馬鹿みてぇだろ」
だが、その目は笑っていなかった。
尚之は静かに息を吐く。
「……私も、同じだった」
稲吉が顔を上げる。
「東西の戦争で、多くを失った。だからずっと、小郡忍衆に、化野平次郎に……同じ苦しみを返してやりたいと思ってた」
雪明かりが、障子に淡く滲む。
「でも……今日で終わりにするよ」
尚之は、小さく笑った。
「……終われんのか、そんな簡単に」
稲吉の声は低い。
「時間はかかるだろうね。
――それでも、いつかは」
沈黙。
やがて稲吉は、視線を逸らした。
「……そうじゃなきゃ、やってられねぇよな」
そう言いながらも、その横顔はどこか遠い。
簡単に消える感情ではない。
そんなことは、二人とも分かっていた。
稲吉は立ち上がると、包帯を結び終えた尚之の肩を軽く叩いた。
「ほら、終わり」
「ありがとう」
「礼はいいからさっさと宴戻れ。若頭が探してんぞ」
尚之は小さく笑い、立ち上がる。
戸口まで歩き――ふと足を止めた。
「……稲吉」
「ん?」
背を向けたまま、尚之は言う。
「お前なら、いずれ分かるだろうから話しておく」
「お七さんは――岩倉から追われ、この小郡へ逃げ込んだ」
稲吉の目が細まる。
尚之は、ゆっくり振り返った。
「その居場所を、岩倉へ流した者がいる」
言葉が、その場で凍りついた。
「――何……」
稲吉の声が、掠れる。
尚之は、静かにその先を告げた。
その瞬間。
稲吉の瞳が、大きく揺れた。
「……っ」
喉が、ごくり、と鳴る。
信じられないものを見たように、稲吉は言葉を失った。
「では行くよ」
尚之はそれだけ残して、雪の降る闇へ消えていった。
戸が閉まる。
一瞬の静寂。
そのとき。
「――あれは、やはり私を討ちに来たか」
低い声が、暗がりから落ちた。
稲吉の動きが止まる。
庭の外――雪を被った木々の傍に、ひとつの影が立っていた。
いつから、そこにいたのか分からない。
降り積もる雪の中、微動だにせず。
衣の裾だけが、風にわずかに揺れている。
平次郎だった。
稲吉が目を見開く。
「お頭……いつから……」
平次郎は答えない。
静かな目が、去っていく尚之の背へ向けられていた。
「……なぜ殺さなかった、稲吉」
稲吉は応えない。
平次郎の視線が、わずかに細くなる。
「恨みは、そう簡単に消えるものではない。
それは、お前が一番よく分かっているはずだ」
稲吉は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……あいつは、単身で乗り込んできた虫けらです」
「次はありません」
低い声だった。
その言葉を、平次郎は黙って聞いていた。




