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五幕 執着

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1

 その日、小郡(おごおり)はどこか浮き立っていた。


 山あいの里には、都よりも早く冬の気配が降りる。

庭先には薄く雪が残り、吐く息も白い。


それでも化野(あだしの)家の屋敷には、若頭就任を祝う支度の音が絶えなかった。


 人の声。

運ばれる酒樽。

忙しなく行き交う足音。


 冷えた空気の中で、その賑わいだけが妙に華やいでいた。


 ――その一室。


「ほら、じっとして」

 コウが、戌助(いぬすけ)の顎にそっと指を添える。


 白の晴れ着に身を包んだ戌助は、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。


「……こんなの、慣れない。なんか、女の子みたい。」

 小さくこぼす。


 コウは、少しだけ目を細めて笑った。

「これは晴れの日の装い」


「紅も――身を清めるためのものよ」

 そう言いながら、指先でやわらかく色を差す。

ほんのわずかな朱が、戌助の表情を変える。


「……ほら、素敵」

 鏡を向ける。


 その言葉に、戌助は一瞬だけ言葉を失った。


 鏡の中には、見慣れない自分がいる。

短く切られた髪。

けれど、紅を引いた顔は、どこか柔らかく見えた。


 ――もし、刀を持たずに生きていたなら。

こんなふうに笑う日も、あったのだろうか。


 そのとき、後ろの戸が開いた。


「あ、ごめん、間違え――」

 顔を覗かせた尚之が、言葉の途中で止まる。


 振り向いた戌助を見て、わずかに目を見開いた。


 白い装束が、雪明かりを受けて淡く浮かぶ。


 そこに差された紅だけが、不思議なほど鮮やかだった。


 短い沈黙。

やがて、ぽつりと漏れる。


「……きれいだ」


 戌助は、ぱちりと目を瞬かせた。


 尚之は、すぐに視線を逸らした。

その姿を見ていると、胸が締めつけられた。


 ――今なら、まだ間に合う。


 言えば、逃がせるかもしれない。

ここから、連れ出してしまえば――


「ちょっと、だめよ! 男子禁制!」

 コウの声が飛んだ。


「はいはい出て! ちゃんと羽織くらい着てください!

稲吉(いなよし)のとこから借りてきて! 留守でも勝手にいいから!」


「あ……ああ」

 押し出されるようにして、尚之は廊下へ出る。


 戸が閉まった。


 しばらく、その場に立ち尽くす。


(……きれい、か)


 自分で口にした言葉が、妙に胸に残っていた。


 言えなかった。

――言ってしまえば、戻れなくなる気がした。


 まだ、自分にはやるべきことが残っている。

そう言い聞かせるように、尚之はゆっくりと踵を返した。




 外へ出ると、冷たい空気が肌を撫でた。

いつの間にか、雪がちらついている。

吐く息は白く、踏みしめた土がかすかに凍てついて鳴った。


 先ほどまでの賑わいが嘘のように、屋敷を離れた小道は静まり返っている。


 稲吉の部屋は、灯りが落ちていた。


「……いないのか」

 尚之は障子を開けた。


 中は散らかっていて、薬草と紙の匂いが混じっていた。


 羽織を探して奥へ入った、その時。

ふと、机の上に目が止まる。


 紙束。

びっしりと書き込まれた筆文字。


 古い水軍の名簿。

処刑に関わった武士の名。

岩倉へ流れた金の記録。

人の繋がりを辿るような、無数の書き込み。


 閉ざされた岩倉の情報を、ここまで集めるには相当な苦労が要ったはずだ。


 墨の滲んだ筆跡のひとつひとつに、消えない執着が滲んでいた。


 尚之は、目を細める。

(……これは)


 稲吉は、気づいている。

自分の目的に。


 その瞬間。

脳裏に、八坂(やさか)の声が蘇る。


 ――感づく者があれば、すぐ殺せ。

 ――情けをかければ、里の者すべてが敵になる。


 尚之の指先が、わずかに強張る。

視線が、紙束へ落ちる。


(……最初に殺すべきは――稲吉か)




 雪の降り積もった広場には、白い花が敷き詰められていた。


 篝火が揺れる。ぱち、と薪が爆ぜる音の向こうで、太鼓が鳴った。


 ――トン、トン、トン。

低く腹へ響く音が、冷えた空気を震わせる。


 就任式が、始まった。


 集まった里の者たちの視線が、一斉に戌助へ向く。


 白装束を纏ったその姿は、雪明かりの中で静かに浮かび上がっていた。


 その視線の間を縫うように、尚之は人混みを抜けていく。


 目だけが、絶えず周囲を探していた。

(……いない)

 稲吉の姿が見当たらない。


 足取りが、自然と速くなる。


 広場の端では、子供たちが花火の準備をしていた。

その中に、ムツの姿を見つける。


「ムツ」

 呼びかけると、ムツが振り返った。


「稲吉を見なかったか」

「……いや」

 首を振る。

その表情を読む暇もなく、尚之は踵を返した。


 太鼓の音だけが、背後で続いている。


 戌助は、ゆっくりと前へ進み出た。

白い息が、夜気に揺れる。


 里の者たちが道を開け、その先に平次郎が立っていた。


 厳かな沈黙。


 平次郎は祭礼用の刀を手に取ると、その峰を戌助の肩へ静かに当てた。

儀礼の動き。

やがて、刀が差し出される。


 戌助は跪き、両手でそれを受け取った。


 そして――掲げる。


 篝火の光を受け、刃が鈍く光った。


 次の瞬間、歓声が雪空へ広がる。


「若頭!」

「おめでとうございます!」


 笑い声。

祝福。

鳴り響く太鼓。


 その喧騒の中で、戌助の目だけが無意識に人混みを探していた。


(……尚)

 見つからない。


 笑みが、わずかに曇る。


 そのときだった。



 ――パンッ!



 夜空へ、花火が打ち上がる。

鮮やかな光が、雪雲を照らした。


 振り向くと、広場の端でムツが大きく手を振っている。

「戌助ー!」


 その姿に、ふっと笑みがこぼれた。

冷えていた胸の奥に、小さな熱が戻る。




 花火の光を背に。

尚之は、会場から離れていた。


 雪を踏みしめ、人気のない道を駆ける。


 白い息が乱れる。


 その時。


「――おい」


 暗がりから、声が落ちた。

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