五幕 執着
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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その日、小郡はどこか浮き立っていた。
山あいの里には、都よりも早く冬の気配が降りる。
庭先には薄く雪が残り、吐く息も白い。
それでも化野家の屋敷には、若頭就任を祝う支度の音が絶えなかった。
人の声。
運ばれる酒樽。
忙しなく行き交う足音。
冷えた空気の中で、その賑わいだけが妙に華やいでいた。
――その一室。
「ほら、じっとして」
コウが、戌助の顎にそっと指を添える。
白の晴れ着に身を包んだ戌助は、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
「……こんなの、慣れない。なんか、女の子みたい。」
小さくこぼす。
コウは、少しだけ目を細めて笑った。
「これは晴れの日の装い」
「紅も――身を清めるためのものよ」
そう言いながら、指先でやわらかく色を差す。
ほんのわずかな朱が、戌助の表情を変える。
「……ほら、素敵」
鏡を向ける。
その言葉に、戌助は一瞬だけ言葉を失った。
鏡の中には、見慣れない自分がいる。
短く切られた髪。
けれど、紅を引いた顔は、どこか柔らかく見えた。
――もし、刀を持たずに生きていたなら。
こんなふうに笑う日も、あったのだろうか。
そのとき、後ろの戸が開いた。
「あ、ごめん、間違え――」
顔を覗かせた尚之が、言葉の途中で止まる。
振り向いた戌助を見て、わずかに目を見開いた。
白い装束が、雪明かりを受けて淡く浮かぶ。
そこに差された紅だけが、不思議なほど鮮やかだった。
短い沈黙。
やがて、ぽつりと漏れる。
「……きれいだ」
戌助は、ぱちりと目を瞬かせた。
尚之は、すぐに視線を逸らした。
その姿を見ていると、胸が締めつけられた。
――今なら、まだ間に合う。
言えば、逃がせるかもしれない。
ここから、連れ出してしまえば――
「ちょっと、だめよ! 男子禁制!」
コウの声が飛んだ。
「はいはい出て! ちゃんと羽織くらい着てください!
稲吉のとこから借りてきて! 留守でも勝手にいいから!」
「あ……ああ」
押し出されるようにして、尚之は廊下へ出る。
戸が閉まった。
しばらく、その場に立ち尽くす。
(……きれい、か)
自分で口にした言葉が、妙に胸に残っていた。
言えなかった。
――言ってしまえば、戻れなくなる気がした。
まだ、自分にはやるべきことが残っている。
そう言い聞かせるように、尚之はゆっくりと踵を返した。
外へ出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
いつの間にか、雪がちらついている。
吐く息は白く、踏みしめた土がかすかに凍てついて鳴った。
先ほどまでの賑わいが嘘のように、屋敷を離れた小道は静まり返っている。
稲吉の部屋は、灯りが落ちていた。
「……いないのか」
尚之は障子を開けた。
中は散らかっていて、薬草と紙の匂いが混じっていた。
羽織を探して奥へ入った、その時。
ふと、机の上に目が止まる。
紙束。
びっしりと書き込まれた筆文字。
古い水軍の名簿。
処刑に関わった武士の名。
岩倉へ流れた金の記録。
人の繋がりを辿るような、無数の書き込み。
閉ざされた岩倉の情報を、ここまで集めるには相当な苦労が要ったはずだ。
墨の滲んだ筆跡のひとつひとつに、消えない執着が滲んでいた。
尚之は、目を細める。
(……これは)
稲吉は、気づいている。
自分の目的に。
その瞬間。
脳裏に、八坂の声が蘇る。
――感づく者があれば、すぐ殺せ。
――情けをかければ、里の者すべてが敵になる。
尚之の指先が、わずかに強張る。
視線が、紙束へ落ちる。
(……最初に殺すべきは――稲吉か)
雪の降り積もった広場には、白い花が敷き詰められていた。
篝火が揺れる。ぱち、と薪が爆ぜる音の向こうで、太鼓が鳴った。
――トン、トン、トン。
低く腹へ響く音が、冷えた空気を震わせる。
就任式が、始まった。
集まった里の者たちの視線が、一斉に戌助へ向く。
白装束を纏ったその姿は、雪明かりの中で静かに浮かび上がっていた。
その視線の間を縫うように、尚之は人混みを抜けていく。
目だけが、絶えず周囲を探していた。
(……いない)
稲吉の姿が見当たらない。
足取りが、自然と速くなる。
広場の端では、子供たちが花火の準備をしていた。
その中に、ムツの姿を見つける。
「ムツ」
呼びかけると、ムツが振り返った。
「稲吉を見なかったか」
「……いや」
首を振る。
その表情を読む暇もなく、尚之は踵を返した。
太鼓の音だけが、背後で続いている。
戌助は、ゆっくりと前へ進み出た。
白い息が、夜気に揺れる。
里の者たちが道を開け、その先に平次郎が立っていた。
厳かな沈黙。
平次郎は祭礼用の刀を手に取ると、その峰を戌助の肩へ静かに当てた。
儀礼の動き。
やがて、刀が差し出される。
戌助は跪き、両手でそれを受け取った。
そして――掲げる。
篝火の光を受け、刃が鈍く光った。
次の瞬間、歓声が雪空へ広がる。
「若頭!」
「おめでとうございます!」
笑い声。
祝福。
鳴り響く太鼓。
その喧騒の中で、戌助の目だけが無意識に人混みを探していた。
(……尚)
見つからない。
笑みが、わずかに曇る。
そのときだった。
――パンッ!
夜空へ、花火が打ち上がる。
鮮やかな光が、雪雲を照らした。
振り向くと、広場の端でムツが大きく手を振っている。
「戌助ー!」
その姿に、ふっと笑みがこぼれた。
冷えていた胸の奥に、小さな熱が戻る。
花火の光を背に。
尚之は、会場から離れていた。
雪を踏みしめ、人気のない道を駆ける。
白い息が乱れる。
その時。
「――おい」
暗がりから、声が落ちた。




