四幕 揺らぐ蛍
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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その夜。
湿り気を帯びた夏の空気が、長屋の隙間をすり抜けていた。
虫の声が重なり、遠くで蛙が低く鳴く。
闇の中を、淡い光がいくつも漂っていた。
蛍だった。
尚之は、机に向かっていた。
灯りは小さく、文の上だけを照らしている。
その外側は、すぐに闇だった。
机の上には、一通の文。
何度も読み返したはずのそれを、尚之はまた目でなぞっていた。
――就任式の翌朝。警戒は緩む。
その機に乗じて平次郎を討て。
そして。
――次の頭となるその子供も、消しておけ。
尚之の視線が、その一文の上で止まる。
「……戌助……」
気づけば、名がこぼれていた。
胸の奥が、きつく締めつけられた。
あの無邪気な顔も。まっすぐな眼差しも。
すべてが、文字の上へ重なっていく。
「……っ」
指先に、力がこもる。
筆を取る。
――止めなければと、その一心で書きつける。
「決行は――」
筆先が、止まった。
その瞬間。
脳裏に、あの短い返答が蘇る。
――終わらせるためにも、まだ止まるな。
わずかな逡巡。
その沈黙の中に、別の景色が浮かぶ。
並んだ墓標。
潮風の中、父と並んで立ち尽くした、あの日。
名を刻むことすらできなかった者たち。
線香の煙だけが、静かに空へ昇っていた。
(……忘れたのか)
誰の声かは、分からない。
ただ――
「……違う」
忘れたわけではない。忘れられるはずがない。
指先が、わずかに震える。
書きかけの文を見下ろし、ゆっくりと首を振る。
「俺は……何のために、ここに来た」
「……俺が
……俺が、やらなきゃ」
まぶたを閉じる。
「……そうですよね、父上……」
不意に、出発の日の父の声がよぎる。
「飯は持ったか。」
「えぇ……? 子供じゃないんですから」
笑うと、父はそれ以上何も言わなかった。
あの背に、今は縋りたかった。
次の瞬間、紙が強く握り潰される。
迷いごと押しつぶすように。
書きかけの文は、そのまま破られた。
蛍がひとつ明滅する。
ふっと光が途切れた。
闇だけが、残った。
尚之は、破いた紙を手の中で押し潰しながら、じっと動かなかった。
三年。
その時間をかけて、地形も、道も、人の流れも――すべてを渡し終えた。
もう、後には引けない。
外では、夏の夜気が静かに揺れている。
それでも耳の奥には、潮騒のような音が、いつまでも残り続けていた。
――やがて、その日を迎える。




