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四幕 揺らぐ蛍

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1

 その夜。

湿り気を帯びた夏の空気が、長屋の隙間をすり抜けていた。

虫の声が重なり、遠くで蛙が低く鳴く。


 闇の中を、淡い光がいくつも漂っていた。


 蛍だった。


 尚之は、机に向かっていた。

灯りは小さく、文の上だけを照らしている。

その外側は、すぐに闇だった。


 机の上には、一通の文。


 何度も読み返したはずのそれを、尚之はまた目でなぞっていた。


 ――就任式の翌朝。警戒は緩む。

その機に乗じて平次郎を討て。


 そして。


 ――次の頭となるその子供も、消しておけ。


 尚之の視線が、その一文の上で止まる。


「……戌助(いぬすけ)……」


 気づけば、名がこぼれていた。


 胸の奥が、きつく締めつけられた。

あの無邪気な顔も。まっすぐな眼差しも。

すべてが、文字の上へ重なっていく。


「……っ」

 指先に、力がこもる。


 筆を取る。

――止めなければと、その一心で書きつける。


「決行は――」


 筆先が、止まった。


 その瞬間。

脳裏に、あの短い返答が蘇る。


 ――終わらせるためにも、まだ止まるな。


 わずかな逡巡。

その沈黙の中に、別の景色が浮かぶ。


 並んだ墓標。

潮風の中、父と並んで立ち尽くした、あの日。

名を刻むことすらできなかった者たち。

線香の煙だけが、静かに空へ昇っていた。


(……忘れたのか)


 誰の声かは、分からない。


 ただ――

「……違う」

 忘れたわけではない。忘れられるはずがない。


 指先が、わずかに震える。

書きかけの文を見下ろし、ゆっくりと首を振る。

「俺は……何のために、ここに来た」


「……俺が

……俺が、やらなきゃ」


 まぶたを閉じる。


「……そうですよね、父上……」



 不意に、出発の日の父の声がよぎる。


「飯は持ったか。」

「えぇ……? 子供じゃないんですから」


 笑うと、父はそれ以上何も言わなかった。


 あの背に、今は縋りたかった。



 次の瞬間、紙が強く握り潰される。

迷いごと押しつぶすように。

書きかけの文は、そのまま破られた。


 蛍がひとつ明滅する。


 ふっと光が途切れた。


 闇だけが、残った。


 尚之は、破いた紙を手の中で押し潰しながら、じっと動かなかった。


 三年。

その時間をかけて、地形も、道も、人の流れも――すべてを渡し終えた。


 もう、後には引けない。


 外では、夏の夜気が静かに揺れている。

それでも耳の奥には、潮騒のような音が、いつまでも残り続けていた。


 ――やがて、その日を迎える。

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