三幕 温かい居場所
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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翌日。
日の傾きかけた頃、コウの家から笑い声が漏れていた。
戌助の若頭就任を祝い、身内だけのささやかな宴が開かれていた。
囲炉裏を囲み、コウ、尚之、戌助の三人が並んでいる。
湯気の立つ椀と、控えめな肴。
それでも、場の空気はあたたかかった。
「ちょっと見てくる」
料理の火加減を確かめるため、コウが席を外す。
ちょうどそのとき、戸が開いた。
「おー、やってるな」
稲吉とムツが、稽古帰りのまま入ってくる。
ムツはまた転がされたのか、全身に土をつけていた。
稲吉はというと、どこから持ってきたのか、酒瓶をいくつも抱えている。
「……また師匠のとこからでしょ、それ」
コウが呆れたように言うと、稲吉は肩をすくめた。
「さあな」
わざとらしい返しのあと、ふと視線を奥へ向ける。
その先で、戌助が笑っていた。
無邪気な笑顔だった。
若頭になったことそのものよりも――
尚之が、この里に残れること。
それが、何より嬉しいのだと、隠しようもなく伝わってくる。
コウと稲吉、それにムツも、ふと目を合わせた。
言葉はいらなかった。
この先がどうなるかなど、誰にも分からない。
それでも――あの顔を見てしまった以上、もう迷いはなかった。
この決断を、尊重する。
それだけは、揺るがない。
「ムツ、お帰り! 大丈夫?」
戌助が気づき、すぐに駆け寄る。
背中についた土を、ぱんぱんと払った。
その手つきはあまりにも自然で、何も疑っていない。
――だからこそ、刺さる。
ムツは誰よりも、この結果の理由を知っている。
自分が告げたからだ。
あの一言がなければ――
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「あ、痛い?」
「…え、あ…大丈夫!」
戌助の言葉に顔を上げ、笑い返す。
だが、その笑みはどこかぎこちない。
その様子を、尚之は静かに見ていた。
(……幻術のこと、気にしているのか)
あのときの反応と、今の沈み方。
無関係とは思えなかった。
隣に座ったムツを見やると、少しだけ間を置いて、口を開く。
「ムツ。
誰かを生かす方法って、一つじゃないと思うんだ」
ムツの丸い目が、尚之に向く。
「傍にいることとか、笑いあえることとか――
そういう当たり前のことのほうが、よっぽど難しい」
囲炉裏の火が、小さくはぜる。
「でもさ。
そういうものが、いちばん折れない支えになることもある」
一瞬だけ、遠くを見るような目だった。
誰かを思い出しているような。
けれど、それ以上は語らない。
ムツは、何も言えなかった。
ただ――戌助を見る。
くったくのない笑顔。
何も知らず、ただそこにある光。
(……ああ)
心に、小さな火が灯る。
(……自分にも、できるだろうか。いや――そうありたい)
せめて、隣に立てるくらいには。
その思いが、ゆっくりと形を持ち始める。
気づけば。
「……尚兄」
ぽつりと、言葉がこぼれていた。
尚之は思わず目を瞬いた。
それからムツの肩を軽く小突き、ふっと笑った。
抑えていた素の表情が、わずかにのぞいた。
それから、尚之は長屋に身を置き、幻術を教えた。
人の輪に入り、言葉を交わし、笑いを分ける。
教えるのは、あくまで日々の暮らしを助ける程度のものに留めていたが、
一年を過ごすうち、確かに信頼は積み重なっていった。
長屋の灯りが落ちていく頃。
尚之は、一人で村外れの高台へ来ていた。
見上げた空には、雲の切れ間から淡い月が覗いている。
手の中には、小さく折り畳まれた文。
しばらく、それを見つめる。
やがて、静かに目を閉じた。
(……もう、終わりでいいはずだ)
小郡で過ごした日々が、脳裏をよぎる。
子供たちに囲まれ、戌助に振り回され、
コウや稲吉と、くだらないことで笑い合った日々。
気づけば、それが当たり前で。
そんなものが、少しずつ胸の奥へ入り込んでいた。
尚之は、長く息を吐く。
それから、ゆっくりと筆を取る。
――本当の意味で、戦を止めるべきです。
――もう、終わらせましょう。
書き終えた文を鳥の足へ結び、空へ放つ。
白い影は、夜気を裂きながら、遠く岩倉の方角へ消えていった。
それから数日後。
戻ってきた鳥の足には、短い文が結ばれていた。
――終わらせるためにも、まだ止まるな。
その一文を、尚之は長く見つめていた。
風が吹く。
だが、そのぬるい夜気とは裏腹に、心だけが静かに冷えていった。
その夜。
長屋の裏手では、酒の入った忍たちが笑い合っていた。
「岩倉水軍ってのは、しぶてぇんだ」
どっと笑いが起きる。
「船に火を放っても、最後まで矢を撃ってきやがる」
「海へ飛び込んでも鎧で沈む。ありゃ傑作だったな」
尚之の足が、止まる。
笑っている。
誰も、悪気などない。
それは、生き残った者たちの武功話だった。
けれど。
尚之の頭には、別の光景が浮かんでいた。
燃える船。
海へ落ちる影。
伸ばしても届かなかった手。
兄弟のように過ごした者たちの声が、波に呑まれていった。
喉の奥が、焼けるような熱を帯びる。
夜風が吹き抜けても、笑い声は耳の奥へ残り続けていた。
それでも翌朝になれば、戌助はいつものように尚之を呼びに来る。
眠そうな顔で。
「尚、稽古」
そう笑うのだ。
そんな日々を、尚之は振り払えないまま過ごしていた。
それから、――二年が過ぎた。
尚之は、高台に立ち、隣の戌助を見ていた。
風に揺れる前髪の向こう、まっすぐに空を見上げる横顔。
(……いつの間にか、十三か)
あどけなさは、まだどこかに残っている。
けれど、その奥にあるまなざしは、もう揺らがない。
戌助は、結び終えた文を鳥に託し、そっと掲げた。
「この手紙を、伊織様に」
指先が離れると、鳥は羽を震わせ、空へと舞い上がった。
それを見送りながら、尚之が言う。
「いよいよ正式な就任式か……。姫も、きっと喜ぶだろうな」
「うん」
迷いのない返事だった。
尚之は、わずかに目を細め、空を仰ぐ。
「秋になるの、楽しみだな」
その言葉に、戌助は笑った。
初夏の光の中で。
何気ない未来が、そこにあった。
――まだ、誰も疑っていなかった。




