二幕 決意
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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戌助の熱が下がってから、数日が過ぎた。
小郡の里は、いつの間にか春の盛りを迎えていた。
診療所の裏手では桜が満開で、風に乗って運ばれてくる花びらが、縁側の足元に積もっていく。
尚之はその一枚を、指先で軽く払った。
儚いものだと、思いかけた時だった。
――ふと。
襖の向こうに、気配を感じる。
顔を上げると、襖の隙間から、戌助がひょこっと顔を出していた。
しかも、口いっぱいに何かを頬張っている。
「……戌助?」
呼ぶと、戌助はもぐもぐしたまま部屋へ入ってきた。
両手には団子の串。
「もう外、歩いていいのか?」
もごもごと何か返してくるが、聞き取れない。
しかも本人は伝わっているつもりらしい。
尚之はついに吹き出した。
「ははっ……何してるの、本当に」
戌助はようやく団子を飲み込むと、一本差し出した。
「稽古で勝って、貰った。尚にもあげる」
「へえ、ありがとう」
受け取り、尚之が口をつけかけた、その時。
「あ、一個、稲吉のなんだ。内緒ね」
「ぐっ――」
危うく吹き出しかけ、尚之は慌てて口元を押さえた。
「それ、まずいんじゃない?」
「ばれなきゃ平気」
悪びれもなく言って、戌助が笑う。
その顔につられるように、尚之も声を漏らした。
肩の力が抜けるような笑い方だった。
そこに、復讐を背負った男の面影はない。
――ああ。
こんなふうに、気を抜いて笑ったのは久しぶりだった。
そう思った瞬間、笑みが静かに消えた。
春風が吹き抜ける。
舞い込んだ桜が、二人の足元へひらりと落ちた。
「もっと話、聞かせてよ」
「ん?」
「岩倉のこととか、幻術のこととか」
間を置かずに、言う。
戌助の言い方はあまりにも自然で、あまりにも無防備だった。
「……そんなに聞きたい?」
「うん。尚の話、面白い」
尚之は、目を瞬いた。
「……そう?」
拍子抜けしたように返して、少しだけ笑う。
(……警戒が、ない)
それが、この里のやり方なのか。
それとも――この子だけなのか。
「楽しそうだなぁ、お二人さん」
軽い声とともに、襖が開いた。
薬を手にした稲吉が入ってくる。
尚之が肩をすくめると、戌助は笑った。
「稲吉も聞く?」
「俺はいい。そういうのは、もっとできるやつに聞けよ」
言いながら、視線を横へ流す。
「なぁ、ムツ」
襖の影に、人影があった。
白湯の椀を持ったまま、半身を隠している。
「なんで隠れてんだよ」
稲吉が呆れたように言う。
戌助がぱっと顔を上げる。
「ムツ、幻術できるの!?」
ムツの肩が、びくりと揺れた。
「こいつの実家の六ツ門家な。古い幻術使いの血筋らしい」
稲吉が、自分事のように得意げに続ける。
「すごいねムツ、なんで黙ってたの!」
「俺も最近知ったけどな」
軽口が重なる中で、ムツだけが言葉を失っていた。
尚之のほうを一瞬見て、すぐに目を逸らす。
「……俺、できないんだ……」
空気が止まる。
尚之が「それは――」と言いかけた、その瞬間。
「――いいんです」
ムツの鋭い声が、場を断ち切った。
目は、今にも崩れそうで。
それ以上は何も言わず、背を向けた。
足早に部屋を出ていき、襖が、ぱたりと閉じた。
「……人見知りか? あいつ」
やがて稲吉が肩をすくめる。
戌助は少しだけ考えて、それから顔を上げた。
「そうだ、尚、ここで幻術の先生やらない?」
「……え?」
「父上には、私から話す!」
迷いのない声だった。
「きっと楽しいよ」
そう言って、笑う。
まるで最初から、ここにいていい者のように扱われる。
一瞬、言葉を失った。
――しかし。
(残れる)
じわりと、その言葉が浮かぶ。
戌助は、自分から道を差し出した。
ならば、利用しない理由はない。
この里に留まり、時間をかけて信頼を得る。
その先にあるのは――
(……好機だ)
だが、その計算の奥に、小さな棘のような違和感が残る。
「……どうしたの?」
戌助が覗き込む。
「いや」
短く返したきり、言葉は続かなかった。
だが、気まずさは不思議と残らず、代わりに他愛ない話がゆるやかに重なっていく。
岩倉のこと、この里のこと――稲吉の軽口に、戌助が笑う。
その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
やがて、障子の外で気配が止まる。
「――失礼する」
低い声が、空気を変えた。
襖が開く。
(――化野平次郎……!)
尚之は目を見開いた。
現れた男は、戦場で見た印象とは違っていた。
もっと剥き出しの威圧を想像していた。
しかし、そこに立っていたのは、拍子抜けするほど物静かな男だった。
どこにでもいそうな、ただの一人の大人。
そう錯覚するほどに。
だが、その奥にあるものだけは容易に測れない。
「君が、噂の安藤殿か。……具合はどうだ」
あくまで穏やかに、常の調子で問う。
抑揚のない声だった。
「はっ、おかげさまで」
戌助が身を乗り出す。
「父上、あの、話したい事が――」
だが、その言葉を遮るように。
「戌助を救ってくれたこと、礼は言おう」
「だが、素性の知れぬ者を、これ以上置くわけにはいかぬ」
空気が、すっと冷える。
「明朝、村を出てくれ。案内を付ける」
「父上!」
呼び止める声にも、振り返らない。
襖が、乾いた音を立てて閉まった。
残された静寂の中で、戌助はゆっくり振り返る。
「……誰か、言ったの。尚のこと」
その目が、まっすぐに向けられる。
尚之と戌助、二人の視線が、同時に稲吉へ向いた。
「は? 俺じゃねえよ!」
稲吉は思わず声を荒げた。
だがすぐに、気まずそうに頭をかく。
「……ま、どのみち潮時だろ」
それだけ言って、背を向けた。
障子の向こうに、足音が遠ざかる。
再び、静寂。
「……先生の話は残念だけど、仕方ないさ」
尚之は、少しだけ笑ってみせた。
だが胸の奥では、まるで違う声が渦巻いていた。
(――嘘だ)
(こんな機会、逃すものか)
「……うん」
戌助は俯いたまま、唇をきゅっと結ぶ。
その横顔が、やけに幼く見えた。
その様子を見て、尚之はほんのわずか、言葉を探すように黙り込む。
焦りと執着が、思考を埋め尽くす。
そして――選んだ。
「戌助」
呼びかける声は、やけに穏やかだった。
「私は――咎人の子なんだ」
空気が、変わる。
「父は岩倉で名の知れた罪人でね。……そのせいで、家族は憂き目にあった。
――だから、隠していて…すまない」
戌助の表情が、揺れる。
「ここなら、もしかしたら……と思っていたんだ」
「本当の自分でも、受け入れてもらえる場所があるんじゃないかって」
諦めたように笑う。
「――甘かったな」
短く、息を吐く。
「でも、戌助を助けられただけ、ここに来てよかった」
(……は、ひどい嘘だ)
心の内で、自嘲が滲む。
「短い間だったけど――ありがとう」
静かに締めくくる。
戌助は、何も言えずにそれを聞いていた。
澄んだ目を大きく見開いたまま、泣き出しそうな顔で。
尚之は、茶碗を手に取り、一口、含む。
――苦い。
やけに、苦い。
そのとき。ぽつりと声が落ちた。
「……行かないで」
尚之の手が、止まる。
次の瞬間――ぐい、と腕を掴まれた。
「出ていくことない! 私が、父上を説得する!」
そのまま、勢いよく立ち上がり――
襖を、思いきり開け放った。
外は、いつの間にか強い雨が降っていた。
庭を叩く音が、激しく跳ねる。
それでも戌助は、一瞬もためらわずに飛び出していく。
雨の中へ。
その背中は、振り返らない。
襖が開いたまま、冷たい風が吹き込む。
庭を叩く雨足が、一層強まった。
尚之は、立ち尽くしたまま、その音を聞いていた。
(……頼む、戌助…)
拳を、ゆっくりと握る。
(君だけが、頼りだ)
そう思った瞬間。
喉の奥が、きつく締まった。
(――俺は…あの子を、利用している)
その事実だけは、どうしても振り払えなかった。
だが――
(……必ず、やる)
復讐の火は、なお消えていない。
雨音は強く。
遠い海の音のように、鳴り続けていた。
その夜。
師匠の家の離れで、ムツはひとり、印を結び続けていた。
だが、何度やっても形にならない。
床に寝転がった稲吉が、退屈そうにぼやく。
「はぁ……尚之も戌助も、真っ先に俺を疑いやがって。
誰がお頭にちくるかよ」
その言葉に、ムツの手が止まった。
「――俺」
「は?」
「俺が、言った……」
吐き出すように言った瞬間、結びかけた印が崩れる。
シュウ、と情けない音を立てて、気配は霧散した。
稲吉はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「……そんな無茶して、尚之に張り合おうったって無理だぞ。
戌助のやつ、あいつにべったりだしな」
軽口のつもりだった。
しかしムツの肩が、びくりと揺れる。
振り向いた顔は、悔しさを隠しきれていなかった。
「……うるさい。集中、できんやろ……」
声はまだ幼い。
だが、いつもよりずっと低かった。
稲吉は、目を見開く。
(……やべ)
身を引いた、その時。
襖の向こう、母屋のほうから声が落ちてきた。
「――それは、まことか……」
低く、重い声音。
二人は顔を見合わせ、立ち上がった。
廊下に出ると、冷たい空気が肌を刺す。
雨の音が、いっそう強くなっていた。
師匠の部屋に入ると、そこにコウが座っていた。
髪も衣も、雨に濡れたまま。
息は整っているが、ここまで走ってきたのは明らかだった。
「コウ? なんだよ、こんな時間に」
稲吉が訝しむ。
コウは、まっすぐに二人を見た。
「……戌助がね、若頭になる件、承諾したわ」
一瞬、言葉の意味が届かない。
「それと同時に――尚之さんの滞在も、許された」
雨音だけが、部屋を満たしていた。
稲吉も、コウも。
そしてムツも――その決断が、どれほど重いものかを知っていた。
短く切られた髪。
隙を許さぬ装い。
幼い頃から、“次代の頭になるために”整えられてきた姿。
だが――
それを、彼女自身が望んでいたかどうかを、ここにいる誰も、軽々しく口にはしなかった。
それを――
「……あいつが、か……」
稲吉の声が、掠れる。
あまりにもあっさりと告げられた現実に、実感が追いつかない。
どうして。
なぜ、そこまでして。
その答えを知るには――少しだけ、時を戻る必要があった。
――遡ること、数刻。
雨の中を駆けてきた戌助は、一度だけ息を整え――襖を開けた。
「父上」
呼びかける声は、思いのほか静かだった。
室内には、灯りがひとつ。
平次郎は書き物の手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……どうした」
戌助は、濡れた裾を気にも留めず、父の前へ進み出た。
「お話があります」
「尚之様は……岩倉の出身かもしれません。
ですが――それが何です」
平次郎は黙って聞いていた。
それでも、戌助は視線を逸らさない。
雨音が、少しだけ遠のく。
戌助は、片手を床につき、縋るように続けた。
「戦は、終わりました。なのに皆、岩倉だからって疑ってる。
それじゃ、戦が終わったことになりません」
唇を、きゅっと結ぶ。
「……嫁いでいった伊織様も、浮かばれません」
沈黙。
平次郎の視線がゆっくりと細まる。
「……戌助」
「それは、戦を知らぬ者の言葉だ」
低く、押し殺した声だった。
長く消えぬ傷のような重さが、そこにはあった。
父の揺らぎない言葉に、戌助の胸が震える。
間違っているのかもしれない。
それでも、戌助は顔を上げた。
「……私は、あの方を信じたい」
雨の音が、ざぁ、と強まった。
戌助の指が握られた。
平次郎が、ゆっくりと口を開く。
「里の者の命が懸かる。それでも、受け入れると言うか」
重く、試すような問いだった。
「……はい」
「ならば」
一拍。
「その責は、誰が負う」
戌助の喉が詰まる。
しばらく、雨音が続いた。
――逃げることもできた。
だが、戌助は息を吸う。
「……私が、負います」
「若頭として、か」
その言葉に、かすかにまぶたが揺れる。
けれどなお、逸らさない。
「はい」
はっきりと、頷いた。
その瞬間。
室内の空気が、ゆっくりと変わる。
平次郎は、しばらく何も言わなかった。
ただ、目の前の我が子を見ている。
その視線は、測るようであり――同時に、見極めるようでもあった。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかった」
「あの者の滞在を、許す」
それだけ告げると、再び視線を落とした。
戌助は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。
自分が、何を選んだのか。
その重さだけが、胸に残っていた。
外では、雨が変わらず降り続いていた。
その音だけが、静かに夜を満たしていた。




