一幕 救いの代償
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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春だった。
雪解けの水が、まだ土を湿らせている頃。
小郡の門前で倒れていた尚之は、そのまま診療所へ運び込まれた。
目を覚ましたとき、見慣れない梁が視界にあった。
ゆっくりと息を吸う。
体は動く。痛みも、想定の内。
(……これで、平次郎へ近づける)
そのとき、傍らにいた少女が気づき、水を差し出した。
受け取る、その一瞬。
袖の内に、細い刃が見えた。
隠すためではなく、“すぐ使える位置”に収められている。
(……女子供も、武器を持つか)
喉を通る水の冷たさとは裏腹に、胸の内が静かに張り詰める。
少女――コウは、廊下のざわめきに気づくと、短く「無理しないで」とだけ言い残し、足早に部屋を去った。
静寂が戻る。
尚之は、ゆっくりと息を吐いた。
(……忍の里)
まぶたを閉じると、波の音が蘇る。
砕ける船。沈んでいく仲間。届かない声。
その向こうに浮かぶのは――感情のない顔。
(化野平次郎……)
奥歯が、かすかに軋む。
(暗殺は、必ず成功させる)
廊下の向こうが、騒がしい。
人の気配が、一箇所に集まっている。
尚之は音を頼りに歩き、ある部屋の前で足を止めた。
襖が、わずかに開いている。
中では、幼い子供が荒い息をついていた。
赤い髪を短く切った、十ほどの子。
まだあどけなさの残る顔が、苦しげに歪んでいる。
呼吸は浅く、時折、喉の奥でかすかな音が絡む。
その様子に、尚之は思わず立ち尽くした。
「熱が下がらん……もう、三日も正体を失っておる……今夜が峠じゃろうな」
老人の声。
周囲の者たちの表情は重い。
そのとき。
「……う……父上……」
うわ言のように漏れた声。
それに応えるように、コウが立ち上がる。
「やっぱり、お頭呼んでくる!」
――お頭。
その一言で、すべてが繋がる。
(……平次郎の子、か)
表情から、すっと熱が消えた。
視線を外し、その場を離れる。
廊下を数歩、歩く。
足が止まる。
(……だからって、なんだ)
握った拳に力が入る。
「……っ」
踵を返す。
迷いを振り切るように、襖を大きく開けた。
「――あの、その子……私に診せてください!」
一斉に視線が集まる。
「どうするつもりだ」
稲吉が鋭く問う。
「まだ手はある。効くかは分からないけど……」
言いながら、すでに子供の傍に座っていた。
そのとき、子供のまぶたがかすかに動く。
不安そうな視線が、こちらを見た。
尚之は、ほんの一瞬だけ間を置き――静かに言った。
「大丈夫」
その顔は、どこかよく笑う人間の名残を残した、やわらかなものだった。
次の瞬間、指先が額に触れる。
一瞬、ためらい、しかしそれを押し切るように――
淡い光が、じわりと滲んだ。
空気がわずかに歪み、現実の輪郭が揺らぐ。
次の瞬間、熱が、引いていく。
やがて。
子供の呼吸が、ゆるやかに落ち着いた。
「ん……だんご……」
その寝言に、張りつめていた空気がほどける。
尚之の口元も、一瞬だけ緩んだ。
それは、自分でも気づかぬほど、淡い笑みだった。
「助かった……」
コウが息を吐く。
「……あんた、すごいな」
身構えていた稲吉が、腰を下ろした。
だが。
老人の声が、空気を引き締めた。
「お前さん、名は? その術……どこで学んだ 」
尚之は、無表情のまま視線を落とした。
「そこまでの術を扱える者は多くない」
老人は尚之をじっと見据えた。
「春日なら、六ツ門家の者。
あるいは――岩倉で、相応の術を学んだ者か」
沈黙が落ちる。
稲吉が、隣に座っている少年を見る。
「ムツ、お前知ってるか?」
ムツは、首を振った。
その一瞬で、逃げ場が消える。
「……」
次の瞬間、稲吉が踏み込んだ。
苦無が、尚之の喉元に突きつけられる。
「吐け。
責め問いしたっていいんだぞ」
「ちょっと――」
コウが制しかける。
だが、稲吉は視線を逸らさない。
「こいつは岩倉の間者だ」
断言だった。
空気が、凍る。
そのとき。
ぐ、と稲吉の裾が引かれる。
「……」
見やると、寝台の上の子が、こちらを見ていた。
「……きっと、その人は悪い人じゃないよ」
まだ弱い声だった。
それでも、まっすぐだった。
「ね……言えないのは、他に理由があるんでしょ」
稲吉の手が止まる。
子供――戌助は続けた。
「みんな、お願い。父上が帰っても……このことは言わないで」
「約束だよ」
その一言に、誰もすぐには言葉を返さなかった。
やがて、小さく頷きが重なる。
稲吉の手から力が抜け、刃が離れる。
尚之は、何も言わなかった。
ただ、静かに息を吐いた。
その日。
尚之は、療養と滞在を許された。
――もう、引き返せない場所に足を踏み入れたまま。
雪解けの水は、静かに春へ流れ始めていた。




