三幕 選択
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1
高台で別れてから、伊織はいつものように侍女の目を避け、屋敷の裏手へ回った。
武具蔵の脇。
姫が通るような場所ではなく、灯りも人影も薄い。
——そのはずだった。
「……今夜、動くらしい」
不意に落ちた声へ、足が止まる。
壁の向こうで、抑えた声が続いた。
「裏の戦だ」
胸の奥が、ざわりと波立つ。
裏の戦。
意味は分からない。
だが——分からないままではいられなかった。
思い出す。
あの机。いつも伏せられていた手紙。
伊織は踵を返した。
八坂の部屋に、人の気配はない。
整えられた机を見回す。
何も——ない。
それでも、一歩近づく。
視線を落とした先。
文箱の脇へ、紙が一枚だけ伏せきらずに覗いていた。
伊織はそれに手を伸ばす。
書き損じか、切れ端か。
途中で断たれた一枚。
指先で、そっと広げる。
「小郡」「準備」「——動く」
途切れた言葉。
だが、それだけで胸がざわつく。
——まだ、何かある。
伊織は視線を走らせた。
文箱の奥。
重ねられた文の、その一番下。
ためらいが、一瞬だけ指を止める。
——見てはいけない。
それでも、そっと引き出した。
開く。
そこにあったのは、整った筆跡。
見覚えのない名。
だが文の中ほどへ、はっきりと書かれていた。
――本当の意味で、戦を止めるべきです
息が止まる。
続く一文。
――もう、終わらせましょう
誰かが、戦を止めようとしている。
それなのに——
(なのに、八坂様は……)
高台で見た伝書の鳥。
「裏の戦だ」という声。
そして、この文。
ばらばらだったものが、ひとつに繋がる。
戦を止めようとしている者がいる。
それでも八坂は、何かを動かそうとしている。
高台で見た鳥は、そのための伝令に違いない。
——そう思った。
喉の奥が、ひどく冷える。
(——戌助が……皆が危ない)
(――私が止めなければ)
迷いはなかった。
部屋を出る。
足は、自然と速くなっていた。
やがて、福童の背を見つけた。
「……春居!」
振り返った福童の目を、伊織はまっすぐに見た。
「私……どうしたらいい?」
伊織は、見たままを話した。
福童はすぐには答えなかった。
わずかに視線を落とし、袖口を握る指へ力が入る。
「……軽々しく動けば、取り返しのつかないことになります」
一度、言葉を切り――伊織の顔を見る。
真っすぐな瞳だった。
迷いも、引く気配もない。
福童は小さく息を吐く。
止めるべきだと、分かっていた。
それでも——その目を、一人で行かせることはできなかった。
「……共に行きます」
その日、空は異様なほど赤く染まっていた。
燃えるような夕刻。
岩倉の屋敷から、二つの影が抜け出す。
伊織と福童。
馬掛けの衣へ身を包み、夜へ紛れていく。
息を潜める間もなく、馬を駆った。
福童は何も言わない。
ただ、隣を走る伊織の背を見ていた。
伊織は前だけを見ている。
——伝書の鳥。
空を裂いて飛ぶ影。
あれが戦を運ぶのなら、止めるしかない。
「春居」
「はい」
「鳥の道を追ってください」
一瞬の間。
だが福童は、すぐに頷いた。
地図を広げ、指が迷いなく線をなぞる。
「伝令は一羽ではありません。中継を通ります——間に合います」
「行きましょう」
馬は夜を裂いた。
風も、闇も、振り切るように。
やがて——岩倉の湊へ着く。
まだ飛び立つ前の鳥がいた。
福童が迷いなく踏み込み、足へ結ばれた文を外す。
「これ……」
伊織も覗き込む。
——兵を止めよ。尚之、戻れ。
一瞬、思考が止まった。
――今夜動くらしい
そう聞いた。
なのに、この文は——止めるためのもの。
自分たちが止めてしまったのは、戦ではなく。
戦を止めるための伝令だった。
理解が、追いつかない。
「……伊織様」
福童の声は低く、静かだった。
問いではない。
ただ、確認だけがそこにある。
伊織は顔を上げた。
「まだ間に合います。小郡へ……!」
だが、その先には両国を隔てる川があった。
渡し舟を待たねばならない。
船を待つ時間が、やけに長い。
波の音だけが、何も知らぬように繰り返されていた。
早く。
早く。
その焦燥だけが、すべてを押し流していく。
そして——夜明けに小郡へ着いた時。
そこにあったのは、戦場ではなかった。
静かな、弔いの火だった。
炎の揺らめきの中心へ、ひとつの身体が横たわっている。
尚之。
その名を、口に出す前に理解してしまう。
間に合わなかったのだと。
伊織の足が止まった。
戌助がその傍で、泣きはらした顔のまま立っていた。
涙の枯れたような、空っぽの表情だった。
「……ぁ」
伊織の、音にならない声が漏れる。
次の瞬間、膝が崩れた。
そのまま地面へ手をつき、肩が大きく震える。
「……ぁ、……っ」
息が、うまくできない。
両耳を押さえる。
聞きたくないものを拒むように。
見たくない現実から逃げるように。
それでも、目の前からは消えない。
何度も、何度も、肩が崩れるように震えた。
「許して……」
「許して……!!」
声は途切れ、地面へ吸い込まれていく。
ただ、火だけが静かに揺れていた。
#__i_7429cddc__#
#__i_b371b9a2__#
伊織の話が終わった時、その場にいた誰も、すぐには動けなかった。
福童は拳を握りしめたまま、うつむいている。
その中で、戌助だけがまっすぐ伊織を見ていた。
長い沈黙のあと。
戌助は、ゆっくりと息を吐く。
「……ずっと」
ぽつりと、落ちる。
「抱えていたのですね」
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そのまま受け止めるような声だった。
少しだけ視線を落とし、それからもう一度、伊織を見る。
「……伊織様」
一度、そこで止まる。
言葉を選ぶように、間が空いた。
「伊織様が見ていたのは、“結果”です」
「ですが——あの人は、それだけでは……」
稲吉が足を組み替え、視線を落とす。
ムツの表情がわずかに緩む。
コウは短く頷いた。
戌助は、その空気を受け取るように目を伏せる。
「……尚も、伊織様と同じように、自分の信じた道を選びました」
戌助は顔を上げる。
迷いのない目だった。
「だから……見てしまった者として、お話しします」
「――尚之が、小郡でどう生きたか」




