二幕 伊織と八坂
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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「はじまりは──私が、岩倉へ嫁いだ日でした」
伊織の声は静かだった。
けれど、その一言で部屋の空気がわずかに沈む。
その日、海はまだ冬の名残を抱いていた。
波の音だけが、遠くでゆっくりと息をしている。
伊織が岩倉へ嫁いだ日、戦は終わった。
岸から旗が消え、
長く続いた戦いも、あまりにあっけなく幕を閉じた。
誰も、終わった気などしていなかった。
それでも、形だけが整えられていく。
和睦の証として、岩倉水軍は解体された。
鉄と木で築かれた船が、一隻ずつ岸へ引き上げられていく。
帆は降ろされ、櫂は折られ、海の記憶だけが剥がされていくようだった。
八坂は、それをただ見ていた。
――その時、八坂が何を思っていたのか。
それを伊織が知るのは、ずっと後のことだった。
最後の一隻が岸へ上がった時だった。
八坂の中で、何かが崩れた。
「……なぜ今、戦を止めるなどと」
声は掠れていた。
「勝利を信じて死んでいった者はどうなる……無駄死にではないか……!」
吐き出した言葉は、海へ落ちても消えなかった。
その背へ、声が落ちる。
「……父上」
尚之だった。
八坂は振り返らない。
ただ、海を見つめたまま、小さく息を吐いた。
やがて、ほとんど独り言のように、ぽつりと零れる。
「……一矢、報いよう……」
「……行ってくれないか」
尚之は、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
それから、熱を持つように八坂の声が上がった。
「私は顔が割れている。だが、お前なら――」
言葉が、不意に途切れた。
喉の奥で言葉が詰まり、八坂は一度目を閉じた。
ばかばかしい、と頭のどこかで分かっている。
戦は終わり、船もない。
それでも――
尚之は、ゆっくりと頷いた。
「――行きます」
その瞳は、まっすぐに父を見ていた。
それが、すべての始まりだった。
尚之が発ってから、海の音は一層静かになった。
八坂は、気づけば岸へ立つ時間が増えていた。
意味などない。
ただ、立っているだけだった。
復讐という言葉だけが、乾いたまま頭の中を転がっていた。
そんなある日、背後から声がした。
「このままでは、壊れるぞ」
振り向くと、スズシロがいた。
八坂は答えない。
スズシロは隣へ並び立ち、少し間を置いて続ける。
「お主――伊織姫の傍にいてくれんかの」
その言葉に、初めて視線が動いた。
「……姫?」
スズシロは目を細めた。
「……あの子は、一人で立っておる。
その辛さ――お主なら、よく知っておろう」
海風が一度、強く吹いた。
八坂は目を伏せる。
好きにしろ、と吐き捨てるように言い、それきり何も言わなかった。
初めて伊織と会った時、そこにいたのは、わずか十歳の少女だった。
衣も髪もすべて、格式高い岩倉のしつらえに整えられている。
本来であれば姫としての気高さを示すもののはずなのに、八坂の目にはむしろ、何かを押し込めているように見えた。
――故郷から、無理やり切り離された子ども。
それが最初の印象だった。
伊織は、八坂をじっと見ていた。
警戒でも、好奇でもない。
幼く、まっすぐな目だった。
八坂は一拍置き、懐から古びた御伽草子を取り出した。
「……少し、読みましょうか」
そう言って頁を開く。
最初、伊織は黙って聞いているだけだった。
だが物語が進むにつれ――
ふいに、小さな笑い声が落ちた。
八坂が顔を上げる。
そこにあったのは、あまりにも年相応な、無邪気な顔だった。
「おかしい、なんで?」
伊織は笑いながら話す。
八坂は、一瞬言葉を失い、懐かしいものを見るように目を細めた。
――尚之と同じだった。
そうして時折、話の腰を折る。
違うだの、おかしいだのと口を挟みながら、最後には誰より楽しそうに笑っている。
記憶が重なり、胸の奥へ、久しくなかった熱が灯る。
ああ、この子は――まだ、大丈夫だ。
故郷を失い、家族とも離れ。
それでも、まだ笑える。
ならば。
――自分が、支えればいい。
そう思った瞬間、孤独へ沈みかけていた心が、ゆっくりと浮かび上がる。
八坂は静かに息を吐き、微笑んだ。
その時から、何かが変わり始めていた。
戦も、復讐も、喪失も。
その隙間へ、別の時間が入り込んでくる。
海の音は、いつの間にか少しだけ遠くなっていた。
それから、季節がひとつ巡った。
伊織は少しずつ、この屋敷で笑うようになり、八坂もまた、気づけばその時間を受け入れていた。
「ねぇ、八坂様」
呼びかけに、筆が止まる。
紙の上の文字を、八坂は無意識に折り伏せるように隠した。
振り返ると、伊織が立っている。
「いかがなされた?」
その背後から、ばたばたと足音が響いた。
「失礼いたします!」
福童と、端間だった。
姫付きの小姓として、挨拶へ来たと言う。
福童は端間の袖をしっかり掴んでいる。
対照的に、端間は落ち着きなく辺りを見回していた。
――また賑やかになるな。
八坂が眉を下げた、そのとき。
「うおっ!」
端間が蝶を見つけ、障子の外へ飛び出した。
「ああ! また……!」
福童が慌てて追いかけ、数歩走って振り返る。
「八坂殿、すみません……!」
一瞬、迷った。
だが放っておくわけにもいかない。
八坂は思わず声を上げた。
「……待ちなさい!」
どたばたと三人分の足音が遠ざかっていく。
部屋に残ったのは、伊織ひとりだった。
しばらく三人の背を見ていたが、やがて視線を落とす。
八坂の机。
折りかけの手紙。
さきほど、手を止めた時。
ほんの一瞬だけ、それを隠すような仕草をしていた気がした。
――誰かに見せてはならないもののように。
――なぜ?
その光景だけが、心に引っかかった。
しかし、伊織は何もせず、ゆっくりと目を離す。
それから、しばらくの時が流れた。
遠く離れた小郡で、尚之が何を見て、何を思っていたのか――
そのすべてを、この時の八坂は知らない。
ただ一度だけ、短い文が届いた。
戦を、止めるべきだと。
八坂は長くそれを見つめ、一度だけ指先で文字をなぞる。
やがて短く返した。
――終わらせるためにも、まだ止まるな。
それで、道は決まった。
引き返す余地を、自ら断ち切るように。
やがて――仇討ち決行の日が来る。
秋の終わり。
冬の気配が混じる、冷えた日だった。
空は、妙に澄みきっていた。
雲ひとつない、乾いた青。
優しすぎるほどの光が、地上へ落ちている。
あまりに穏やかで――だからこそ、現実味がない。
八坂は、高台へ立っていた。
風が強い。
視界の先、空へ放たれた伝書の鳥が、まっすぐ小郡の方角へ消えていく。
それは、開戦の合図だった。
すでに兵は動き始めている。
今さら止めることなどできない。
そう思いながらも、胸の奥には言葉にできない何かが残っていた。
それでも、目は逸らさない。
これで終わらせる。
そう決めたはずだった。
「八坂様」
背後から、声がした。
振り返るまでもない。
伊織だった。
気づけば十三。
あの頃のあどけなさは薄れ、言葉も気配も大人へと近づいていた。
風へ少し髪を揺らしながら、迷いなく隣へ立ち、八坂を見上げた。
「ねぇ、こんなところで、何をしているのですか」
「姫様こそ、ここは冷えますよ」
「そうですか?」
気にした様子もなく笑い、やがて何気ない調子で言う。
「尚之様は……お元気ですか」
不意の言葉に、八坂の目がわずかに動いた。
伊織はふっと遠くの峰を見た。
これまで何度か名は聞いていた。
だが、こうして自分から尋ねるのは初めてだった。
「あれは、真っすぐすぎる気性で……困ったものです」
言いながら、眉を下げて笑う。
それを見て、伊織も小さく笑った。
「じゃあ、八坂様に似ているのですね」
(似ている、か)
八坂はすぐには答えない。
胸の奥が、かすかにざわつく。
――正しいと決めたら、曲げない。
あの文。
「戦を止めるべきだ」と書かれていた一行がよぎる。
あれもまた、あいつらしい。
だが――そのまっすぐさを、いま自分は押し潰そうとしている。
「私は、もう家族に会えません」
風が一度、強く吹いた。
「だから……」
伊織はそこで、言葉を探すように少しだけ目を伏せる。
「今は八坂様が、父のようなものです」
その一言で、何かが崩れた。
音もなく、静かに。
仲間。
戦場。
置いてきたもの。
守れなかった背中。
それらを背負ったままでは、自分だけが安らぐことなど許されないと思っていた。
幸せになっていいはずがない、と。
だが――
そのすべての上へ、ぽつりと落ちた一言が、あまりにもあたたかかった。
胸の奥で、強張っていたものがほどけていく。
自分でも気づかぬうちに、握りしめていたものが。
八坂は、ゆっくりと息を吐いた。
長く、深く。
「……そうですか」
ようやく、それだけを返す。
伊織はそれ以上、何も言わなかった。
ただ隣へ立ち、同じ空を見ている。
その静けさの中で、八坂は気づいてしまう。
――このままでは、いけない。
伊織と別れた直後だった。
八坂は、踵を返す。
「伝令を出せ」
近くにいた者が、はっと顔を上げた。
「……は」
「兵を止めろ。今すぐだ」
躊躇はなかった。
「尚之にも伝えろ。――戻れと」
走り出す足音が、次々に重なる。
遅いかもしれない。
それでも――今、止めなければならない。
それだけだった。




