一幕 秘密
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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あの戦から、数日が経っていた。
千鶴子と松風は御井の護衛に見送られ、静かに帰路についた。
味坂もまた、「やることがある」とだけ言い残し、五郎丸とともにスズシロのもとへ戻っている。
戦の熱だけがゆっくり冷めていくように、小郡の空気もまた、少しずついつもの呼吸を取り戻しつつあった。
診療所の台所では、コウと女たちが忙しなく動いている。
包丁の音。
湯の沸く音。
薬草の匂いが、狭い台所へ満ちていた。
その端で、まだ皿へ盛られていない卵焼きへ、そっと手が伸びた。
「ちょっと」
声が飛ぶ。
だが稲吉は悪びれる様子もなく、そのまま卵焼きを一切れ口へ放り込んだ。
「腹減った」
たすき掛けのまま、治療の合間を縫って現れたらしい。
いつもなら、その瞬間に拳が飛ぶ。
それを見越していた者たちは、思わず肩をすくめた。
だが今日は、何も起きなかった。
コウはただ静かに包丁を動かしている。
その横顔には、疲れが滲んでいた。
そこで、稲吉の目が止まる。
――思い出す。
あの時、自分の刃がコウを傷つけ、失いかけたことを。
呼吸が、ひとつ遅れた。
次の瞬間、稲吉は背後からコウを抱きしめていた。
離さぬように。
指先にだけ、わずかに力が残る。
「……悪かった」
耳元へ落ちた声は妙に低く、胸の奥へ沈むような響きがあった。
台所の空気が一度止まり、すぐにざわめく。
しかしコウは振り向かない。
ただ静かに包丁を持ち直し、その刃を自分の背――二人の間へ、そっと差し込んだ。
一瞬、ざわめきが悲鳴へ変わる。
それでも稲吉は動じない。
コウの背へ触れたまま、小さく息を吐き――何事もなかったように、もう一切れ卵焼きを摘まんだ。
そのまま、ひらりと台所を出ていく。
廊下へ出る頃には、すでに別の忍へ指示を飛ばしていた。
先ほどの一瞬だけが、妙に浮いている。
コウは何も言わなかった。
ただ、耳まで真っ赤になっていた。
その様子を少し離れたところから見ていた福童が、頃合いを見計らって声をかける。
「おコウさん……食材、ここ置いときますね」
「え、うん!」
その直後、福童は廊下の角でムツとぶつかった。
まだ癒えていない身体で、ムツは重い布団を何組も抱えていた。
二人まとめて、そのまま床へ転がる。
「いってて……」
「す、すみません!」
そこへ、どたばたと足音が響いた。
端間だった。
「おーい!……って、何やってんだよお前ら」
布団の隙間から、福童とムツの顔が覗く。
「どうしました?」
その問いに、端間は息を整えながら言った。
「伊織様が……目ぇ覚ました!」
その一言で、空気が変わった。
皆の声が止まり、包丁の音が止まる。
湯の沸く音だけが、やけに大きく響いていた。
そして数刻後。
診療所の二階は、思いのほか静かだった。
布団の上で、伊織はすでに身を起こし、白い寝間着のまま静かに座っていた。
その姿には、かつて滲んでいた異様な気配はもうない。
荒ぶる揺らぎも、張りつめた鬼の影も消えていた。
戌助がその傍らへ座り、端間が横に控える。
少し離れて、福童、稲吉、ムツ。
遅れて来たコウが、伊織を見て胸をなでおろす。
「良かった…」
しかし、その後誰もすぐには口を開かなかった。
空気だけが、ゆっくりと沈んでいく。
伊織だけが、全員を見ていた。
やがて、小さく息を吸う。
「……ごめんなさい」
伊織は膝の上で手を握る。
指先が、わずかに震えていた。
「私……戌助に……皆さんに……
話さなければいけないことが……あります」
福童の目が、わずかに細くなった。
(……とうとう、その時が来ましたか)
彼だけが、その重さの輪郭に触れていた。
伊織の喉の奥で何かが詰まり、続きが出てこない。
戌助が不安そうにその横顔を見る。
福童が一歩だけ前へ出た。
「……私がお話ししましょうか」
伊織は小さく首を振る。
「……大丈夫です」
一度、浅く息を吸う。
今にも途切れそうな呼吸だった。
そして――
「私……尚之様を……殺めてしまいました」
静寂が落ちた。
戌助が息を呑む音だけが、やけに大きく響く。
伊織は震える声のまま続けた。
「私の判断が……すべてを壊しました……」
その瞬間、部屋の温度がひとつ下がったように感じられた。




