↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/90

一幕 秘密

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1

 あの戦から、数日が経っていた。


 千鶴子と松風は御井(みい)の護衛に見送られ、静かに帰路についた。

味坂(あじさか)もまた、「やることがある」とだけ言い残し、五郎丸とともにスズシロのもとへ戻っている。


 戦の熱だけがゆっくり冷めていくように、小郡の空気もまた、少しずついつもの呼吸を取り戻しつつあった。


 診療所の台所では、コウと女たちが忙しなく動いている。


 包丁の音。

湯の沸く音。

薬草の匂いが、狭い台所へ満ちていた。


 その端で、まだ皿へ盛られていない卵焼きへ、そっと手が伸びた。


「ちょっと」

 声が飛ぶ。


 だが稲吉(いなよし)は悪びれる様子もなく、そのまま卵焼きを一切れ口へ放り込んだ。

「腹減った」

 たすき掛けのまま、治療の合間を縫って現れたらしい。


 いつもなら、その瞬間に拳が飛ぶ。

それを見越していた者たちは、思わず肩をすくめた。


 だが今日は、何も起きなかった。


 コウはただ静かに包丁を動かしている。

その横顔には、疲れが滲んでいた。


 そこで、稲吉の目が止まる。


 ――思い出す。


 あの時、自分の刃がコウを傷つけ、失いかけたことを。


 呼吸が、ひとつ遅れた。


 次の瞬間、稲吉は背後からコウを抱きしめていた。


 離さぬように。

指先にだけ、わずかに力が残る。


「……悪かった」


 耳元へ落ちた声は妙に低く、胸の奥へ沈むような響きがあった。


 台所の空気が一度止まり、すぐにざわめく。


 しかしコウは振り向かない。

ただ静かに包丁を持ち直し、その刃を自分の背――二人の間へ、そっと差し込んだ。


 一瞬、ざわめきが悲鳴へ変わる。


 それでも稲吉は動じない。


 コウの背へ触れたまま、小さく息を吐き――何事もなかったように、もう一切れ卵焼きを摘まんだ。


 そのまま、ひらりと台所を出ていく。

廊下へ出る頃には、すでに別の忍へ指示を飛ばしていた。


 先ほどの一瞬だけが、妙に浮いている。


 コウは何も言わなかった。

ただ、耳まで真っ赤になっていた。


 その様子を少し離れたところから見ていた福童(ふくどう)が、頃合いを見計らって声をかける。

「おコウさん……食材、ここ置いときますね」


「え、うん!」


 その直後、福童は廊下の角でムツとぶつかった。


 まだ癒えていない身体で、ムツは重い布団を何組も抱えていた。


 二人まとめて、そのまま床へ転がる。

「いってて……」

「す、すみません!」


 そこへ、どたばたと足音が響いた。


 端間(はたま)だった。


「おーい!……って、何やってんだよお前ら」


 布団の隙間から、福童とムツの顔が覗く。

「どうしました?」


 その問いに、端間は息を整えながら言った。


「伊織(いおり)様が……目ぇ覚ました!」


 その一言で、空気が変わった。


 皆の声が止まり、包丁の音が止まる。

湯の沸く音だけが、やけに大きく響いていた。




 そして数刻後。


 診療所の二階は、思いのほか静かだった。


 布団の上で、伊織はすでに身を起こし、白い寝間着のまま静かに座っていた。


 その姿には、かつて滲んでいた異様な気配はもうない。

荒ぶる揺らぎも、張りつめた鬼の影も消えていた。


 戌助(いぬすけ)がその傍らへ座り、端間が横に控える。

少し離れて、福童、稲吉、ムツ。


遅れて来たコウが、伊織を見て胸をなでおろす。

「良かった…」


 しかし、その後誰もすぐには口を開かなかった。

空気だけが、ゆっくりと沈んでいく。


 伊織だけが、全員を見ていた。


 やがて、小さく息を吸う。


「……ごめんなさい」


 伊織は膝の上で手を握る。

指先が、わずかに震えていた。


「私……戌助に……皆さんに……

話さなければいけないことが……あります」


 福童の目が、わずかに細くなった。

(……とうとう、その時が来ましたか)


 彼だけが、その重さの輪郭に触れていた。


 伊織の喉の奥で何かが詰まり、続きが出てこない。

戌助が不安そうにその横顔を見る。


 福童が一歩だけ前へ出た。

「……私がお話ししましょうか」


 伊織は小さく首を振る。

「……大丈夫です」


 一度、浅く息を吸う。

今にも途切れそうな呼吸だった。


 そして――


「私……尚之(なおゆき)様を……殺めてしまいました」


 静寂が落ちた。

戌助が息を呑む音だけが、やけに大きく響く。


 伊織は震える声のまま続けた。


「私の判断が……すべてを壊しました……」


 その瞬間、部屋の温度がひとつ下がったように感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。