五幕 歪んだ鬼
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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八坂と伊織の気配が、再び戦場に満ちていく。
だが、それが広がり切る前に、ムツが一歩、前へ出た。
懐から取り出したのは、小さな神体――カササギ。
握りしめた瞬間、空気が“裏返る”。
押し潰すように広がっていた鬼若子の圧がほどけ、水へ墨を落としたように滲んでいた暗い光が、ゆっくりと伊織の周囲へ引き戻されていく。
その中心で、光は今にも掻き消えそうに揺れた。
ムツの呼吸が止まる。
――届いた。
そう思った瞬間だった。
ざわっ――と、暗い光が激しく脈打つ。
まるで息の根を奪われる獣が、最後の抵抗をするように。
その瞬間、戌助の喉がひくりと鳴る。
(何が起きた……!)
光は一度、伊織の頭上へ跳ね上がり――
見えない壁へ叩き返されたように、その矛先を変えた。
一直線に――伊織へ“戻っていく”。
「……っ!」
光は伊織にぶつかり、伊織の身体が跳ねた。
次の瞬間、異変が起きる。
瞳が赤く染まる。
額の奥から、角のようなものが突き出す。
爪が軋む音を立てながら伸び、口元から獣じみた牙が覗いた。
「ぁあっ、あああ”――っ!!」
裂けるような叫びが、戦場へ響き渡った。
悲しみか、苦しみかもわからない声だった。
「伊織様……!!」
戌助が駆け出す。
八坂の視線に、ごくわずかな“乱れ”が生じた。
伊織を見据えたまま、その目の奥にだけ、焦りが滲む。
だがそれは、すぐに押し殺される。
伊織の姿を見て、ムツの思考が一拍遅れた。
(――違う)
確かに、止めたと思った。
だが頭の奥に、言葉が浮かぶ。
槐の長の声だった。
――これは一度だけ、鬼若子の力を跳ね返す。
――呪いを返す、境の鳥だ。
ぞくり、と背筋が冷える。
(返した……だけだ)
次の記憶が、遅れて浮かぶ。
――鬼若子の器となった者を、救う術はない。
ムツの額に汗がにじんだ。
視線の先で、伊織が苦しげに崩れていく。
何も、止まっていない。
(……俺は、間違えた……?)
その事実だけが、遅れて胸へ落ちてきた。
その思考を切るように、稲吉の目が細まる。
音もなく、状況を測っていた。
ムツの焦りが戦場に残る中 ――戌助は駆けていた。
その場にいる誰よりも早く、一直線に伊織の前へ飛び込む。
「目を覚まして!!」
声は届かない。
伊織は、自分の形を保てないまま、内側から何かに引き裂かれていた。
両手で顔を覆い、叫びながら崩れるように震えている。
戌助はそれでも腕を伸ばす。
着物を掴み、引き寄せる。
「戻って……!」
その瞬間、伊織の爪が振り下ろされた。
背中に、深く食い込む。
だが戌助は離さない。
一歩も引かないまま、ただ抱きしめる。
痛みの中で、時間だけが止まった。
伊織の動きが、わずかに揺れる。
――泣いていた。
獣のような叫びの奥で、確かに涙が流れている。
やがて、光がすっと力を失った。
そのまま、崩れ落ちるように伊織の身体が沈む。
その瞬間、残滓のように漂っていた暗い光が弾けた。
そして――
矛先を変えるように、八坂へと飛んだ。
「……っ!」
暗い光が八坂の胸へ突き刺さる。
八坂が胸を押さえた。
初めて、その顔が歪む。
岩倉兵の間に、かすかなざわめきが広がった。
八坂はその中で、ふと稲吉を見る。
何かを言いかけて、やめたような目だった。
稲吉はそれに応えない。
ただ目を逸らさずそこに立っていた。
その静けさが、八坂の胸の奥へ沈めていた面影を、否応なく呼び起こした。
一瞬だけ、八坂の目が揺れた。
だが、すぐに視線を断ち切るように前を向く。
「……退け」
短い命令だった。
そのひと声で、岩倉兵は一斉に動きを引き締める。
崩れかけていた隊列が、逆流するように後退へと転じた。
声はほとんどない。
怒号も混乱もない。
ただ、秩序だけが残った撤退だった。
その動きを、少し離れた位置で平次郎と松風が見ていた。
言葉はない。
ただ、戦場の温度だけを測るように、静かに視線を向けている。
やがてざわめきが途切れたころ。
伊織は力を失ったように崩れ落ちた。
戌助が膝をつき、その身体を支える。
ムツの意識がふっと遠のき、稲吉が腕をつかむ。
誰もすぐには動けない。
戦場だけが、静かに元の重さへ戻っていった。




