四幕 使える駒
ザッ、と鈍い音が落ちた。
稲吉は、迷いなく戌助の縄を断ち切っていた。
一瞬、誰も何が起きたか分からなかった。
戌助でさえ。
稲吉は短く告げる。
「戌助、行くぞ」
そして、ほんのわずかに口の端を上げ――笑った。
まるで「してやった」とでも言いたげな、得意げな顔。
それだけで、戌助は理解した。
張り詰めていたものがほどけるように、喉から息が漏れる。
「帰ったね……」
その声を聞いた瞬間、稲吉は堪えきれなくなったように小さく吹き出した。
悪戯を見破られた子供のようだった。
次の瞬間にはもう、二人は背中を預けるようにして身構えていた。
八坂の目がわずかに見開かれる。
――想定外。
その感情が一瞬だけ表に出て、すぐに冷たく切り替わった。
「捕えよ!!」
声が落ちると同時に、周囲の兵が一斉に二人へ殺到した。
混戦が始まる。
その外縁を裂くように、一人の影が駆け込んだ。
「稲吉……!」
ムツだった。
その声に、稲吉の口元がわずかに歪む。
「石頭め……」
軽く吐き捨てるような声。
だが、その目だけは昔のままだった。
「良い眺めだと……? 覚えてろよ!」
刃を払う音とともに、稲吉が言う。
ムツは息を呑んだ。
「戻ったの、まさか――」
一瞬、頭の中で繋がる。
(俺とやった時点で、もう戻ってたのか?)
だから今の動きなのか、と理解しかけて――
「……だったら先言えよ!!」
思わず声が荒れる。
刃が交差する中で、稲吉は軽く振り返った。
その顔は、妙に楽しそうで、どこか得意げですらあった。
「戻った瞬間、俺が“最高に使える駒”になったと思ったよ」
「……は?」
ムツの顔が引きつる。
稲吉は、敵兵の攻撃を一閃でいなしながら言う。
「敵の信頼を得ながら、こっち側で動けるからな」
ムツは思わず叫ぶ。
「俺は命がけだったんだぞ!」
稲吉は軽く肩をすくめる。
「お前がもっと嘘がうまかったら、話してたよ」
「……ぶっとんでる」
ムツの声が、半ば呆れに変わる。
後方で、戌助が小さく吹き出した。
ほんのわずかだけ空気が緩む。
そしてその横で、ムツもようやく笑った。
だが、戦場は止まらない。
稲吉はすでに次の一手を見ていた。
混戦の輪の外で、福童と端間が一瞬だけ視線を交わした。
言葉はない。
だが、それで十分だった。
福童はコウへと、口元だけで笑いかける。
嫌な余裕のある笑みだった。
コウは一瞬だけ目を見開き――すぐに理解した。
(ああ、何かやる気ね)
小さく口角を上げると、顎で門脇の足場を示す。
――そこ。
福童は、何も知らぬ顔で岩倉兵へ向き直った。
「前進――」
その声に押されるように、兵たちが一斉に雪崩れ込む。
味坂が、額に手をかざしながら目を細める。
「おい……なんだよ、嫌な予感しかしねぇな」
コウは木組みの仕掛け棒へ静かに手を伸ばす。
わずかな抵抗のあと、枷が外れた。
ぎ、と音が鳴る。
次の瞬間、橋脇へ増設されていた足場が一気に崩れ落ちた。
「――っ!?」
気づいた兵が叫ぶより早く、地面が抜ける。
うわぁああああ――と悲鳴が重なり、鎧ごと兵が滑り落ちていった。
列は一瞬で崩壊した。
福童はその光景を見ながら、肩をすくめる。
「おやおや……これは失礼。見誤りましたねぇ」
わざとらしい軽さだった。
端間は横で頭をかきながら笑う。
「ごめんなー」
そのまま二人は、何食わぬ顔で小郡側へ戻っていく。
流れは一気に裏返った。
だが、それでも岩倉全体はまだ崩れない。
その事実だけが、戦場の底に沈んでいた。
門の内側では、御井が足をくじいた千鶴子をおぶり、右往左往していた。
救護所のほうからは、絶え間なく呻き声と怒号が漏れている。
「いったぁーい! 痛い痛いもう!」
「ちったぁ我慢しろよ! 救護班も、もう手が回ってねぇんだよ!」
そこへ、松風が東の戦場から戻ってきた。
「千鶴子、無事だったか」
眼鏡をわずかに直し、安堵の息をつく。
衣服も髪も乱れていない。
しかし、その瞬間――表情が変わった。
「……何か来るな」
松風の視線が、門の外へ向く。
重く閉ざされた大門の脇には、先ほどの砲撃で歪んだ裂け目が残っていた。
松風はそこへ静かに手を伸ばす。
水の気配が揺れ、歪みが人ひとり分の隙間へと広がった。
そのまま、外へ踏み出す。
「俺も見に行く!」
御井が慌てて続いた。
「えっ、ちょっと私は置いてってください!」
千鶴子の悲鳴めいた声が背中から飛ぶ。
三人が門の外へ出た、その時だった。
その気配を、平次郎もまた戦場の只中で感じ取っていた。
――何か、只ならぬものが来る。
理由でも経験でもない。
ただ、身体の奥が先に理解していた。
「皆、退け!」
平次郎の声が響く。
だが、その言葉は戦場のざわめきへ吸い込まれるように薄れていった。
音が、遠のく。
次の瞬間。
空気が、“沈んだ”。
胸の奥へ、見えない重みが落ちてくる。
平次郎の隣へ、松風が並ぶ。
「……あれは……」
その声は、確信ではなく記憶に近かった。
御井が思わず呟く。
「……なんだよ、これ」
千鶴子は言葉も出ない。
ただ胸元を押さえ、青ざめたまま立ち尽くしている。
忍衆も、岩倉兵も動きを止めていた。
敵も味方もない。
誰一人、足が出ない。
その中心に、姫が立っていた。
いや――
“姫だったもの”。
視線は定まらず、唇は震え、輪郭すら揺らいで見える。
八坂の声が低く落ちる。
「……願いを、聞き入れよ」
その瞬間、“何か”が解放された。
暗い光が、伊織の内側から滲み出す。
距離の感覚が崩れる。
戌助は、ぞくりとした。
ふいに――
『ワタシヲ、オモイダシテ』
一匹のキジが残したはずの言葉が、戌助の脳裏によみがえった。
次の瞬間、知らない記憶が胸の奥へ流れ込んでくる。
泣いた覚えのない涙。
触れた覚えのない手。
大切だった気がする、誰かの気配。
(……離れ離れになる)
そう思った瞬間だった。
中心から、光が“落ちた”。
まるで世界の底が抜けたような静寂とともに、それは広がった。




