二幕 死ぬな
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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村はずれの炊き出し場には、湯気と飯の匂いが立ち込めていた。
見張り台の鐘はすでに鳴っている。
だが戦が始まれば、ここは兵糧を支える場となる。
大きな釜の周りでは、里の女たちが慣れた手つきで握り飯を並べている。
御井もその中に混じっていた。もっとも、その手つきは慣れたものとは言い難い。
洗ってもいない手で飯を握り、形も歪だ。
隣に座る千鶴子は、先ほどからそれをじっと見ていた。
見ていたが。
御井が、手の甲についた飯粒をぺろりと口へ入れた瞬間、ついに限界が来た。
「ちょっと御井さん! あなたが握ったの避けてくださいね!」
「え?」
御井が顔を上げる。
「なんでだよ」
「汚いからです!」
御井は、ああ、と返しながら、残っていた飯粒をまた口に入れた。
千鶴子は額を押さえた。
「もう……どうしてわたくしがこんなことを……」
雪松様の傍にいたかった。
その一言が喉元まで出かかったが、口にはしない。余計に惨めになるだけだった。
「これも立派な戦だよ」
近くで握り飯を包んでいた子供が言った。
まだ十にも届かぬような歳だった。
「戦?」
「うん。お腹空いたら戦えないもん」
御井がけらけらと笑った。
「小郡の子はお前より大人だな~」
「何ですって!?」
千鶴子がふくれる。
ふと、周囲の音が消えた。
笑い声も。
釜の蓋を開ける音も。
誰かの話し声も。
ぴたりと途絶える。
千鶴子が顔を上げた。
女たちは皆、同じ方向を見ている。
御井も眉をひそめた。
「……何だ?」
ぱしっ。
一本の矢が炊き出し場の柱へ深々と突き刺さり、木片が散る。
千鶴子の肩が跳ねた。
だが。
「来たよ」
誰かが静かな声で言った。
窯の傍に居た老婆が包丁を置き、腰から苦無を抜いた。
先ほどまで握り飯を包んでいた子供も、無言で短刀を構える。
その顔には、怯えも迷いもない。
御井と千鶴子は言葉を失った。
その間にも木々の奥で気配が動く。
ひとつ。
ふたつ。
いや、それどころではない。
数十名の岩倉兵が、木々の隙間を縫うように姿を現した。
鎧の擦れる音さえ殺した進軍だった。
誰も叫ばず、名乗りもしない。
ただ獲物へ近づく獣のように距離を詰めてくる。
その奥に、ひとりの黒装束が立っていた。
顔は見えない。だが、ただ立っているだけで妙な圧があった。
「なんだ、あいつ……」
御井が呟く。
男はじっと炊き出し場を見つめていたが、やがて顎をわずかに動かした。
それを合図に半数ほどの兵が離脱し、森の奥へ消えていく。
残された兵だけでも、この場を潰すには十分だと言わんばかりだった。
黒装束もまた、振り返りもせず姿を消す。
残った兵が前へ出た。
そして――戦が始まった。
ひゅっ、と風が鳴る。
先頭の岩倉兵が喉を押さえ、声もなく崩れ落ちた。続けて二人、三人。
飯炊き場の竈の陰。
積み上げられた薪の隙間。
兵糧を積んだ荷車の裏。
潜んでいた女たちの暗器、手裏剣が一斉に飛ぶ。
狙いは正確だった。
喉。目。手首。足首。
殺し切る者もいれば、動きを奪う者もいる。
敵兵がようやく刀を抜く頃には、すでに次の刃が届いていた。
先ほどまで握り飯を握っていた者たちが、何事もなかったように敵を狩っていく。
御井の目の前で、子供の忍が敵の首筋へ刃を走らせた。
血飛沫が、霧のように散る。
それでも、その顔は水面のように静かだった。
御井は思わず身を震わせる。
「……戌助、こんなとこで育ったのかよ……」
自分の知る喧嘩や腕比べとは違う。
ここでは躊躇ったほうが死ぬ。
その時だった。
「きゃああああっ!」
場違いな悲鳴が響いた。
御井が振り向くと、千鶴子が慣れない手つきで薙刀を振り回し、半泣きで走っている。
振りは乱れ、足さばきも危うい。
敵兵より、むしろ味方のほうが危険なほどだった。
「うわっ、そっち行くな!」
御井は飛び出した。
千鶴子へ迫った兵の腹を蹴り飛ばし、そのままもう一人の顎へ錫杖を叩き込む。
男は白目を剥いて倒れた。
さらに千鶴子の襟首を掴み、ひょいと後方の安全な場所へ放り出す。
「大丈夫かよ!」
千鶴子は尻もちをついたまま、涙目で御井を見上げた。
「……今、わたくしを荷物みたいに投げませんでした?」
「いや、人として丁重に運んだ」
「丁重に!?」
千鶴子は慌てて立ち上がり、袖の土を払う。
御井は頭をかきながら言った。
「お前、なんできたんだよ。邪魔だろ」
「だって……だって!」
ついに千鶴子はその場で泣き出した。
「居ても立ってもいられなかったんですものぉ!」
子どものような泣き声だった。
御井は頭をかいた。
「……こんなんで、戌助は絶対泣いたりしねぇぞ」
千鶴子の泣き声がぴたりと止まる。
「そんなだから、ムツだってお前より戌助のほうが放っとけねぇんだよ」
「男と比べないでよ!!」
「いや、あいつも女だろ……」
沈黙。
「……え?」
御井の口も止まった。
「へ?」
「…………え?」
千鶴子の声が、さっきよりずっと低かった。
御井は悟った。
(あ、これ言っちゃいけねぇやつだった……?)
だが遅い。
千鶴子の肩がわなわなと震えた。
泣いているのではない。怒っているのだ。
拳を握りしめ、大きな目がかっと見開かれる。
一拍。
「やーーーーーっ!!」
戦場じゅうに響く声とともに、千鶴子は敵陣へ突っ込んでいった。
薙刀がぶん、と大きく唸る。
さっきまでのおぼつかなさが嘘のような勢いだった。
「お、おい待てよ!! ちょっと!!」
御井は慌てて追いかける。
敵兵たちは、泣きながら突っ込んでくる娘と、それを追う大男を前に、一瞬だけ動きを止めた。
その隙を、小郡忍衆は見逃さなかった。
再び、風が鳴った。
――村の東。
唯一、大軍の展開できぬ細い山道に、ムツは立っていた。
谷へ落ち込む斜面と、岩肌の露出した細道が入り組み、木々が深く視界を遮っている。
ここに兵を並べれば、かえって足を取られる。
ゆえに、ここだけは少数で抑えられた。
槍を肩に担ぎ、ムツは静かな林を見渡した。
まだ敵影はない。
だが、風の匂いが違う。
血と鉄の気配が、じわじわと近づいていた。
その静けさの中で、不意に胸の奥が沈んだ。
――ここだ。
視線の先には、谷へ落ちる斜面がある。
忘れるはずもない。
あの日も、戦だった。
雪が降っていた。
骨に刺さるような寒さの中、自分たちは敵将を追ってこの場へ来た。
その中で、戌助へ向けて放たれた一本の矢。
尚之は、とっさに前へ出た。
矢は胸を貫き、勢いのまま身体を後ろへ弾いた。
足場を失った尚之は、そのまま谷へ落ちた。
尚之は戻らなかった。
――戌助は、お前が守れ
自分に、そう言い残した。
――尚っ!
あの時の戌助の悲鳴じみた声が、今も耳の奥に残っている。
ムツは奥歯を噛みしめた。
その時だった。
木立の向こうで枝が鳴る。
風に混じって、複数の気配が動いている。
来る。
確信したその直後、木々の隙間から黒装束が姿を現す。
頭巾の奥に、細い眼差し。
稲吉だった。
その背後には二十ほどの兵が散開していた。
無駄のない動きで、一目で分かった。手練れだ。
ムツは槍を握り直した。
「……やっぱり来たか……」
稲吉は何も言わない。
ただ周囲へ視線を走らせ、地形を見ていた。
次の瞬間、背後の林がざわめいた。
新たな気配。
味方の忍衆が木々の間へ音もなく散り、包囲するように配置につく。
その中央を、一人の男が静かに歩み出た。
松風だった。
裾の長い羽織を揺らし、涼しい顔で立つ。
ムツと同じ黒髪を揺らし、前だけを見ていた。
「――あれは」
ムツが振り向く。
「父上。――本隊より、こちらのほうが厄介かもしれません」
稲吉の目がわずかに細まる。
気取られた。
松風は即座に指を組み、静かに印を切った。
地面を這うように水の気配が広がる。
次の瞬間、それは濁流となって噴き上がる。
龍の胴のような水の奔流が、敵兵の列へ食らいついた。
「うわっ!」
「下がれ!」
兵たちが足を取られ、岩場へ叩きつけられる。
同時に忍衆が動いた。
木の上から縄が飛び、足を絡め、短刀が手首を裂いた。
戦場が乱れる。
だが、その濁流を、たった一人紙一重で避けた影があった。
稲吉は低く身を沈め、岩を蹴り、林の奥へ走る。
「っ、待て!」
ムツが踏み出しかける。
「ここは任せなさい」
松風の声が飛んだ。
振り返ると、松風はすでに次の印を結んでいた。
その背後で忍衆が敵兵を抑え込んでいる。
ムツは頷くと、槍を構え直し、林の奥へ駆け出した。
岩倉兵の叫び声と、龍の咆哮にも似た水音が山へ反響する。
それを背に、ムツは黒い影を追い続けた。
林を抜け、岩場を越える。
そこは昔、よく二人で修行した場所だった。
記憶だけが、昔のまま残っている。
幼い頃、泣きながら木槍を振っていた自分。
その額を小突き、稲吉はいつも不機嫌そうに言った。
――ムツ、お前は弱い。
容赦のない言葉だった。
悔しくて、何度も泣きそうになった。
だがそのあと、必ず続けた。
――でも、俺の弟弟子になったからには、お前は絶対死なせない。
ぶっきらぼうに。
まるで当然のことのように。
――強くなるより先に、生き残る方法を覚えろ。
――勝てねぇ相手は腐るほどいる。だが、生きて帰れば次がある。
――俺が、お前にそれを教えてやる。
倒したい相手なんかじゃなかった。
ずっと、追いかけてきた背中だった。
少し先で、黒い影が立ち止まった。
振り返る。
その眼差しに、ムツの知る兄弟子の面影はなかった。
深い井戸の底のように暗い。
す、と小太刀が抜かれ、月光が刃を走った。
ムツも槍を下段に構える。
じり、と互いに間合いを測る。
先に動いたのは稲吉だった。
姿勢が沈んだ次の瞬間には、刃が目の前にある。
速い。
槍で受ける。
火花。
だが一撃では終わらない。
返す刃、踏み込み、肘、蹴り。
一手動く間に、二手、三手と攻めが重なる。
考えるより先に、防ぐしかなかった。
圧される。
弾かれ、構え直す間にも次の刃。
首筋を掠め、袖を裂き、槍の柄を削る。
汗が噴き出した。
熱いのか冷たいのかも分からない。
恐怖か興奮か。
足が震える。
――お前は槍がいい。
――刀より遠い。お前みたいな泣き虫には、その半歩が命になる。
昔の声がよみがえる。
だが、その間合いすら、この男の前では意味を失う。
再び刃が走る。
ムツは身を捻って避け、石を蹴って後方へ跳ぶ。
その着地に合わせ、稲吉がさらに踏み込んできた。
読めない。
刀筋だけではない。
肩も、視線も、踏み込みさえも――すべてが次の手の囮だった。
斬撃の合間に体術が混ざる。
柄で喉を突き、膝で崩し、肘で急所を狙う。
一瞬でも遅れれば終わる。
ムツは歯を食いしばった。
――お前の左は、とっておけ。
昔、稲吉は木槍を受け流しながら、淡々とそう言った。
――右利きのふりをしろ。癖も、間合いも、全部そう思わせろ。
――終わったと思わせてからが勝負だ。左はそのためにある。
以来、ムツは普段すべて右で通してきた。
刀も槍も、箸さえも。
きっと今の稲吉も知らない。
刃を受け流した次の瞬間――ムツは槍を左手へ滑らせた。
構えが逆転する。
踏み込みも、軌道も、瞬時に変わる。
「――っ」
稲吉の目がわずかに揺れた。
その隙を逃さず、石突で口元を打つ。
金具が砕け、口当てが地へ落ちた。
月明かりの下に露わになった顔は、懐かしい横顔だった。
だが表情は冷え切っている。
稲吉はゆっくりと目を細めた。
左手が腰へ落ちる。
次いで、鞘走る音。
右の刃に、左の刃が並ぶ。
月下に交差した二振りの小太刀が、冷たく光った。
「――二刀……!」
ムツの背筋が粟立つ。
一度だけ、昔に見たことがある。
修練場で相手をした年上の忍たちが、瞬きの間に全員転がされた。
あの時、誰も笑っていなかった。
頭候補とまで言われた男の、隠していた牙が――
来る。
次の瞬間、左右の刃が、別々の生き物のようにうねった。
右を受ければ左が脇へ。
左を払えば右が喉へ。
柄に絡み、懐へ潜り、腕ごと断ちに来る。
ムツは後退しながら地を蹴った。
砂を跳ね上げ、視界を奪う。
そのまま低く滑り込み、足払い。
普段ならやらない。
正々堂々とも言えない。
だが。
――使えるものは何でも使え。
――やり方が汚くても、生きて帰ったやつの勝ちだ。
(それを教えたのも、あんただろ)
足払いは躱された。
だが跳ねた砂が一瞬だけ視界を曇らせる。
ムツは槍の石突で脇腹を突く。
しかし、そこへ左の刃が割り込んだ。
火花。
次いで右の刃が頬を裂く。
熱が走る。
さらに腿。腕。胴。
浅い傷が次々増えていく。
「稲吉! 帰ってこい!!」
叫ぶ。
しかし、返るのは無言の斬撃だけだった。
首を狙った一閃を紙一重でかわす。
だが続く刃先が額を掠めた。
ムツの額から、どっと血が落ちる。
視界が赤く染まった。
呼吸が乱れる。
体中の血が冷えた感覚。
ムツの瞳は暗い光に支配されていった。
膝が落ちかける。
稲吉が間合いを詰め、二刀が交差する。
「――終わりだ」
低い声だった。
その時。
ふいに思い出したのは、自分の声だった。
――腕相撲じゃ、もう俺に勝てないくせに
前に、ふざけて煽った。
だが実際、力比べだけなら何度か勝ったことがある。
なら。
一回。
一回でも捕まえればいい。
ムツの目に、光が戻った。
迫る二刀を、今度は避けなかった。
真正面から踏み込む。
右の刃が肩口を裂き、左の刃が腿を薙ぐ。
熱と痺れが同時に走った。
それでも止まらない。
槍を捨てる。
空いた両手で、稲吉の着物の前を掴んだ。
「――捕まえた」
稲吉の目が、初めて見開かれる。
そのまま力任せに引き寄せ、額を叩き込んだ。
ごっ、と鈍い音。
星が散るような衝撃が、自分の頭にも返ってくる。
だが、稲吉の体が一瞬ふらついた。
そこを逃さず、ムツは全体重で押し倒す。
二人まとめて地を転がり、岩肌へ叩きつけられた。
気づけば、稲吉を組み伏せていた。
片腕を押さえ、膝で胴を封じ、喉元へ肘を当てる。
――取った。
胸が激しく上下する。
傷の痛みも、流れる血も、今だけは遠い。
勝った。
あの稲吉を、押さえ込んだ。
こみ上げる熱に、ムツは血まみれの顔で笑った。
「……良い眺め」
昔、稽古で地に転がされた自分へ、稲吉が吐いた言葉だった。
稲吉の眉がぴくりと動く。
次の瞬間。
「ちっ」
舌打ち。
昔と同じ、癖だった。
ムツの胸が跳ねる。
――今のは。
そう思った、次の瞬間。
稲吉の膝が跳ね上がる。
ムツの傷ついた腿を、寸分違わず蹴り抜いた。
「っぁ……!」
ほんの一瞬力が抜ける。
その隙だけで十分だった。
稲吉の体がするりと抜け、ひらりと間合いの外へ退く。
着地と同時に、二刀はすでに構え直されていた。
乱れた呼吸さえ、次の瞬間には消えている。
月明かりの下、稲吉は無言でムツを見下ろした。
その目は、冷えていた。
懐かしさも、怒りも、迷いもない。
ただ、行く手を阻むものを退けた者の目だった。
ムツの胸に灯りかけた希望が、静かに搔き消された。
「……稲吉」
呼びかけても、返事はない。
その時だった。
――ドォン!!
腹の底を揺らす轟音が、山の空気を裂いた。
二人同時に視線を上げる。
木々の向こう。
小郡村の正面から、赤い火が立ちのぼっていた。
黒煙が夜空へ伸びていく。
ムツの血の気が引く。
「……本隊……!」
稲吉の隊は囮。
ここで自分たちを足止めし、その間に正面へ兵をぶつけたのだ。
稲吉はじり、と一歩だけ後ろへ下がる。
ムツは槍を拾おうと手を伸ばした。
だが腿の傷が深く、体勢が崩れる。
「待て……!」
声だけが飛ぶ。
稲吉は止まらない。
わずかに横顔を見せる。
その眼差しは、最後まで揺らがなかった。
けれど、去り際。
ほんの一瞬だけ。
握られた右手に、力がこもったように見えた。
次の瞬間には、もう林の闇へ溶けていた。
「くそ……っ!」
ムツは拳で地を叩く。
捕らえられなかった。
連れ戻せなかった。
だが――生き残った。
それだけが、胸に残る。
すぐに顔を上げる。
「……まずい!」
上着を引き裂き、腿へ巻きつける。
血を押さえ込み、きつく結ぶ。
痛みで視界が白む。それでも立った。
足は震えている。
だが、まだ心は折れていない。
本隊が危ない。
ムツは槍を拾い上げると、燃え上がる空へ向かって駆け出した。
傷口から赤が滲む。
それでも、一歩も止まらず。




