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三幕 境の鳥

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

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 コウが目を覚ました時、頭上には白くやわらかな天井があった。


 砂糖を砕いて塗り込めたように淡く光り、薄い石の灯器越しに、色が揺れている。

窓からは、朝とも昼ともつかぬやさしい光が差し込んでいた。


 槐(えんじゅ)の里だった。


 身体の下には厚い布団。

腹には固く巻かれた包帯の感触がある。


 息を吸うたびに痛んだ。


 生きているのだと、その痛みが教えてくる。


 傍らでは、ムツが座ったまま眠っていた。


 壁へもたれ、手には空になった水差しを握ったまま、浅い寝息を立てている。

顔には疲れが濃く残っていた。


 床には薬鉢。

使い終えた布。

血の滲んだ包帯。


 ずっと、ここにいたのだと分かる。


 コウがわずかに身じろぎすると、ムツの鼻がぴくりと動いた。


 すぐに目を開き、勢いよく体を起こす。


「……コウ……良かった……」

 泣き出しそうな顔だった。


「えっと、水飲む?」

 立ち上がりかけた背へ、コウの声が落ちた。


「……もう、戻れないのかな」


 ムツの足が止まる。


 コウはぼんやりと天井を見つめたまま、続けた。

「あの時の稲吉(いなよし)の目……なんだか、すごく遠かった」


 かつて知っていたものとは違う、冷たい刃のような視線。


 脳裏に、別の声がよみがえる。


 ――何度話しても、誰も振り向いてはくれなんだ。


 スズシロの、諦めを呑み込んだ声。


 ムツは黙って戻り、布団の傍へ座り直した。

「……あの稲吉が、コウの料理を何日も食い損ねてるんだよ。

きっと恋しくなって、すぐ戻るよ」


 返事はない。

コウは無表情のまま天井を見つめている。


 涙も怒りもない。

ただ、空っぽの静けさだけが残っていた。


 やがて、ぽつりと言う。

「……一人にして」


「……ぇ」

 ムツは少しだけ黙り込む。

それから、はっきりと言った。


「嫌だ」


 コウがゆっくり顔を向ける。

「はぁ……?

……ちょっとは、空気読みなさいよ……」


 掠れた声で言いながら、目の端から涙がこぼれる。


 一粒。


 また一粒。


 止めようとしても止まらず、次々に溢れていった。


 コウは手で顔を覆い、肩を震わせる。


 ムツは、その肩へそっと手を置いた。

「今は、一人じゃないほうがいいよ……」


 しばらく、部屋の中にはその震えだけが残っていた。


 外の風が窓をかすめ、薄い障子をわずかに揺らす。

どこか遠くで、水の流れる音が途切れ途切れに聞こえていた。


 その時だった。


 窓辺へ黒い影が差し、羽音が響く。

一羽の鴉が舞い降りた。


 ムツははっとして立ち上がる。

足へ結ばれた文を解き、素早く目を走らせた。


 その顔色が変わる。


「何?」

 コウが問う。


 ムツは文を握りしめた。ごくりと喉を鳴らす。


「若は人質に……

――小郡(おごおり)で、戦が始まる」


 部屋の空気が一変した。


 コウは涙を拭い、痛む身体を押して起き上がる。

「……船、出すわよ」


 ムツも頷いた。

「近くに味坂(あじさか)さんもいるはず」


 立ち上がろうとしたコウは、痛みに小さくうめいた。

ムツは体を支え、半ば抱えるようにして部屋を出た。


 二人が外へ出ると、里には落ち着かぬ空気が広がっていた。

白狐たちが道の脇から、不安げな目でこちらを見ている。


 船着き場へ急ぐ途中、不意に里の空気が変わった。


 道の先に、長が立っていた。


 歩を進めるたび、足元の苔がかすかに光を返し、淡い芽吹きの気配を広げていく。


「――行くのか」


 ムツが頭を下げる。


 長はしばらく二人を見つめ、やがて小さく頷いた。

「里の者は、お前たちに救われた」


 紫紺の袖の中から、小さな包みを取り出す。


「鬼若子(おにわこ)の器となった者を、救う術はない。

……だが……抗うためのものは、残っている」


 コウの目が揺れた。


 長は一度目を伏せ、包みを開く。


 中には、銀黒く光る鳥の像。

翼を広げた、カササギのご神体。


 それを、ムツへ差し出した。


「これは一度だけ、鬼若子の力を跳ね返す」


「呪いを返す、境の鳥だ」


 ムツとコウは息を呑んだ。


「行け」

 長は静かに言った。


 船が岸を離れる。

水面が揺れ、櫂の音が岩壁へ響いた。


 岸辺には白狐たちが並んでいる。

大人たちも、子狐たちも。

小さな手を懸命に振っていた。


 門は開かれたまま。

石灯の明かりが遠ざかる。


 槐の里が、少しずつ小さくなっていく。


 その向こうには、血と火の匂いを孕んだ空が待っている。


 コウは胸元を押さえ、前を見据えた。

ムツは舵を握る。


 水面が裂けるたび、見えない戦の気配が、船の腹を叩くように近づいてくる。


 それでも船は止まらない。


 ――戦のただ中へ。


 まっすぐ滑り込むように、進んでいった。

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