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一幕 月下の天守

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

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 石の冷たさだけが、時を刻んでいた。


 岩倉城の地下牢。

湿った壁。鉄の格子。差し込む光もない狭い牢の中で、戌助(いぬすけ)たちは息を潜めていた。


「……やはり、私と小左ヱ門(こざえもん)が動いていたことは、八坂(やさか)殿に読まれていましたか」

 福童(ふくどう)が壁へ背を預け、乾いた笑みを落とす。


「それにしても……稲吉(いなよし)さんが、あちら側とは」


 牢の隅では、端間(はたま)が浅い眠りのままうなされていた。

「来るな……やめろ……っ」


 戌助は膝を寄せ、端間の肩を軽く揺する。

「小左ヱ門」


 端間は、はっと目を開けた。

 荒い息のまま辺りを見回し、それから顔色を変える。


「あれ……黒ずくめの連中は……?

コウは……。

コウ、助かったか……? 」


 戌助は苦い顔のまま、静かに首を横へ振る。


「わからない……」


 端間の喉が、ひくりと鳴った。

「……そっか」

 力なく笑う。


「俺たち、また……ばらばらにされたんだな」


 その言葉だけが、牢の石壁へ小さく残った。


 伊織を連れて城を逃れたあの日、この牢で肩を寄せ合っていた者たちの姿も、もうどこにもない。


 助けもなく、策もない。

この牢の中には、もう希望も見当たらなかった。


 届かぬ声を石壁へ残したまま、夜は静かに更けていく。




 その頃――。


 城の高みでは、雲間の月がひとつ瞬いていた。


 岩倉城、天守の欄干。


 雲は空を覆い、天の川は見えない。

ただ、わずかにのぞいた月明かりだけが、冷たく床を照らしている。


 伊織(いおり)は欄干の前に立ち、遠い闇を見つめていた。

その背後には、八坂が立っていた。


 やがて、さらにもうひとつ気配が降りた。


 黒装束の男――稲吉が膝をつく。


「申し上げます。

化野(あだしの)戌助、福童、端間。三名、捕縛いたしました」


 低く、抑揚のない声だった。


 伊織の肩が、わずかに震える。


 八坂は振り返り、静かに頷いた。

「ご苦労、下がってよい」


 稲吉は一礼し、音もなく闇へ消えていく。


 その気配が遠ざかってから、伊織は息を詰めるように口を開いた。


「……八坂様」


 振り向かぬ背へ向けて、

「もう、終わりにしましょう。

鬼若子(おにわこ)の力では、何も変わりません」


「失ったものは戻らず……ただ、大切な縁を失うだけです」


 伊織の声は細い。

それでも、その言葉だけは確かだった。


 風が吹き、長い髪が揺れる。

八坂は伊織の隣へ立ち、しばらく黙したまま夜空を見上げていた。


「……月が出ていますな」


 唐突なひと言だった。


 伊織が息を呑む。

八坂は空を見たまま続けた。


「……あの夜も、こんな満月でした」

 雲間の月明かりが、その横顔を淡く照らす。


「それを見るたび――尚之(なおゆき)が、私の息子が帰ってくる気がするのですよ」


 伊織の肩が、びくりと震えた。

八坂はそこで初めて、ゆっくり伊織を振り返る。


「息子を帰らぬ人にした貴女には、滑稽に聞こえるでしょうが」


 その目には、かつての穏やかさなど残っていなかった。


 伊織の唇が震える。


「……あなたは……すべて、知って……」


 八坂は答えなかった。

その沈黙こそが、答えだった。


 伊織は一歩、後ずさる。

胸の奥へ隠していた罪も、祈りも、すべて見透かされていたのだと知った。


 八坂は再び空へ視線を戻す。

「小郡忍衆(おごおりにんしゅう)の里へ――兵を出しましょう」


 伊織は顔を上げた。

「兵を……?

戦を、するつもりですか……!」


「……弔いです」


 あまりにも静かな声だった。


 伊織は首を振る。

「そんなこと、尚之様も望みはしません!!」


 次の瞬間――

「貴女に何が分かる!!」

 怒声とともに、八坂の手が伊織の喉を掴んだ。


 背を欄干へ叩きつけられ、息が詰まる。


「っ……!」

 指が容赦なく喉を締め上げる。


 その目は、逃げ場を失った小獣をいたぶる鷹のように鋭く、冷たかった。


 ――自分の息子を奪った者が。


 ――それを口にするのか。


 言葉にならぬ怒りだけが、その手へ宿っていた。

伊織は苦しげにその腕へ縋りながら、それでも声を絞り出す。


「どうか……もう……誰も失わぬ道を……お選びください……!」


 八坂の指先が止まった。


 しばしの沈黙。

やがて、ゆっくりと手が離される。


 伊織はその場へ崩れ落ち、激しく咳き込んだ。

見下ろす八坂の目は、底の見えぬ水のように暗かった。


「伊織様。私は、あなたに知ってほしかった」


「大切なものを奪われる気持ちを」


 伊織は言葉を失う。


 若君の面影が脳裏をよぎった。


 病に苦しむあの人を見送った喪失。


 あれは――


 答えは告げられぬまま、それでも十分すぎるほど伝わっていた。


 天の川は雲へ隠れ、暗い光だけが空へ滲んでいる。


 八坂は伊織を見下ろしたまま、さらに続けた。

「そして今度は、化野(あだしの)――あの“赤き影”にも」


 化野平次郎。

その名に、伊織の顔色が変わる。

「やめて……」


 八坂はまるで聞こえぬように、静かに月へ目を向ける。

「同じ痛みを……」


 その瞬間、伊織の胸へ残っていた最後の希望が崩れ落ちた。


 八坂が、いつか元の優しい人へ戻るかもしれない。

そんな願いは、もうどこにもなかった。


 風が吹く。


 開いた襖の陰で、気配がひとつ揺れた。


 稲吉は、何も言わずそこに立っていた。

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