三幕 温かいうちに
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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船は、槐の谷の前に静かに停まっていた。
奥では白い壁と、淡く色づいた石灯が揺れているはずなのに、岩肌へ抱かれたこの場所は、やけに暗い。
冷たい天井のような岩を見上げながら、一行は沈黙していた。
福童は珍しく、言葉を持たぬまま座している。
「……救えない、か」
小さく零れた声は、誰へ向けたものでもなかった。
端間は甲板の手すりへ身体を預け、水面を見つめながらぽつりと呟く。
「……伊織様、大丈夫かなぁ……」
戌助が視線を向ける。
「小左ヱ門……」
呼ばれて、端間は笑おうとして、うまくいかなかった。
岩倉の情勢に変化はない。
だが、福童も端間も、あの夜以来、伊織の姿だけは見ていなかった。
「……伊織様はさ、若君がいてさ、八坂様も……昔みたいに笑っててさ……」
「そういうの、全部戻したかったんじゃないかって」
沈黙が落ちた。
端間は苦笑するように唇を歪める。
「でもさ。ひとつも、うまくいってねぇんだよな」
「こんなことまでして……やっと変えたのに」
言いかけたところで、喉がひくりと鳴った。
端間は乱暴に袖で目元をこすった。
「……苦しいよな……」
うまく笑えないまま、それでも泣くまいとする顔だった。
戌助は何も言わず、背へ手を置く。
ムツも、そっと隣へ立った。
ふと、戌助の中にひとつ疑問が芽生える。
(八坂様は、何をやり直したかったんだ……)
その時だった。
船の外に、小さな気配が近づいた。
白狐の子がひとり、岩陰からそっと姿を見せる。
手には包み。
船縁へそれを置くと、少しだけ距離を取った。
「……これ、食べて」
まだ不安定で、頼りない子供の声。
「人は、命が短くて、弱い生き物だって聞いた。
だから、鬼若子の力に救いを求めるんだって」
小さな耳が揺れた。
「私、それが全部悪いとは……思えなくて」
そう言うと、白狐はすぐに背を向け、闇へ消えていった。
残された一行は、その包みを見ていた。
福童が、口を開く。
「……正しさだけで、片付けられる話ではないのかもしれません」
それだけ言うと、また静かに視線を落とす。
誰も、すぐには答えなかった。
包みを覗き込んでいたコウが、ふいに声を上げた。
「ああこれ、珍しい山菜だ!」
指先で軽く葉を持ち上げる。
「そうだ。明日持っていけるように、包んどこ」
明るくそう言うと、迷いなく立ち上がった。
船の隅へ簡易の火を起こし、手際よく下処理を始める。
やがて、ほんのりとした香りが船の中へ広がった。
冷え切っていた空気が、わずかにほどけていく。
「……なんか、落ち着くね」
戌助が小さく息をつき、少しだけ表情を緩めた。
その横で、ムツもほっとしたように肩の力を抜く。
香りの中で、コウはふと手を止めた。
まだ出来上がっていない料理を、ひょいと横からつまむ手。
なぜそんな光景が浮かんだのかは分からなかったが、くだらないのに、やけに鮮明だった。
「お待たせ~」
やがてコウは、包み終えた弁当を運んできた。
どん、どん、と少し乱雑に卓に置いていく。
その数に、ムツが首をかしげた。
「……一人分、多くない?」
コウは一瞬だけ止まり、
「え……ああ」
と言いかけてから、小さく首を振る。
「……あってるわよ」
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
でも、一つ足りないと、きっと誰かが文句を言う気がした。
コウは、皆の視線を避けるように、弁当へ視線を落とした。
その瞬間だった。
――朝まだ暗いうち、戸を叩く音が蘇る。
「コウ! あれくれ、弁当! 卵入ったやつ!」
寝起きの頭で怒鳴り返した。
「朝っぱらからうるさい!」
単独任務に出る日だった。
急かすように受け取って、包みを開けるなり卵だけ口へ放り込む。
「……これがあると無事に帰れんだよ。お守りだ」
そう言って、ぶっきらぼうに出ていった。
礼なんて、ひとつもなかった。
それでも、あの背中だけは妙にはっきり思い出せた。
「稲吉……」
コウは、弁当の包みをそっと握る。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
そのぬくもりが、忘れられていたものを、少しずつ船へ呼び戻していた。
ムツへ、福童へ、そして端間へ。
言葉ではない形で、確かに伝わっていくものがあった。
「ああ……そうだ」
ムツが顔を上げた。
涙にはならない。
まだ、ならない。
「コウ……」
戌助が眉を下げ、笑みをこぼした。
それに応えるように、コウは頷く。
「……食べよ、温かいうちに」
そう言って笑った声は、少しだけやわらかかった。
食事が終わり、夜は更けていった。
皆は船内で休み、明かりも落ちている。
ふと、気配に戌助が目を開けた。
身を起こし、船窓の外を見る。
洞窟の奥。滝裏へ続く暗がり。
何もないはずの闇が、わずかに揺れた。
音ではない。
ただ、何かが入り込んだような違和感だけが広がる。
やがて、岩を踏む気配がひとつ。
またひとつ。
さらに、揃った足取り。
戌助は静かに立ち上がった。
「……何か来る」
眠る仲間たちは、まだ気づかない。
波音へ紛れ、影が近づく。
そして洞窟の奥――
夜の底から、人の形が現れ始めた。




