↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/90

三幕 温かいうちに

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1

 船は、槐(えんじゅ)の谷の前に静かに停まっていた。


 奥では白い壁と、淡く色づいた石灯が揺れているはずなのに、岩肌へ抱かれたこの場所は、やけに暗い。


 冷たい天井のような岩を見上げながら、一行は沈黙していた。


 福童(ふくどう)は珍しく、言葉を持たぬまま座している。


「……救えない、か」

 小さく零れた声は、誰へ向けたものでもなかった。


 端間(はたま)は甲板の手すりへ身体を預け、水面を見つめながらぽつりと呟く。


「……伊織(いおり)様、大丈夫かなぁ……」


 戌助(いぬすけ)が視線を向ける。

「小左ヱ門(こざえもん)……」


 呼ばれて、端間は笑おうとして、うまくいかなかった。


 岩倉の情勢に変化はない。

だが、福童も端間も、あの夜以来、伊織の姿だけは見ていなかった。


「……伊織様はさ、若君がいてさ、八坂(やさか)様も……昔みたいに笑っててさ……」


「そういうの、全部戻したかったんじゃないかって」


 沈黙が落ちた。

端間は苦笑するように唇を歪める。


「でもさ。ひとつも、うまくいってねぇんだよな」


「こんなことまでして……やっと変えたのに」


 言いかけたところで、喉がひくりと鳴った。

端間は乱暴に袖で目元をこすった。


「……苦しいよな……」


 うまく笑えないまま、それでも泣くまいとする顔だった。


 戌助は何も言わず、背へ手を置く。

ムツも、そっと隣へ立った。


 ふと、戌助の中にひとつ疑問が芽生える。


(八坂様は、何をやり直したかったんだ……)


 その時だった。


 船の外に、小さな気配が近づいた。

白狐の子がひとり、岩陰からそっと姿を見せる。


 手には包み。

船縁へそれを置くと、少しだけ距離を取った。


「……これ、食べて」


 まだ不安定で、頼りない子供の声。

「人は、命が短くて、弱い生き物だって聞いた。

だから、鬼若子(おにわこ)の力に救いを求めるんだって」


 小さな耳が揺れた。


「私、それが全部悪いとは……思えなくて」


 そう言うと、白狐はすぐに背を向け、闇へ消えていった。


 残された一行は、その包みを見ていた。


 福童が、口を開く。

「……正しさだけで、片付けられる話ではないのかもしれません」


 それだけ言うと、また静かに視線を落とす。

誰も、すぐには答えなかった。


 包みを覗き込んでいたコウが、ふいに声を上げた。

「ああこれ、珍しい山菜だ!」


 指先で軽く葉を持ち上げる。

「そうだ。明日持っていけるように、包んどこ」

 明るくそう言うと、迷いなく立ち上がった。


 船の隅へ簡易の火を起こし、手際よく下処理を始める。


 やがて、ほんのりとした香りが船の中へ広がった。

冷え切っていた空気が、わずかにほどけていく。


「……なんか、落ち着くね」

 戌助が小さく息をつき、少しだけ表情を緩めた。

その横で、ムツもほっとしたように肩の力を抜く。


 香りの中で、コウはふと手を止めた。


 まだ出来上がっていない料理を、ひょいと横からつまむ手。


 なぜそんな光景が浮かんだのかは分からなかったが、くだらないのに、やけに鮮明だった。


「お待たせ~」

 やがてコウは、包み終えた弁当を運んできた。


 どん、どん、と少し乱雑に卓に置いていく。

その数に、ムツが首をかしげた。


「……一人分、多くない?」


 コウは一瞬だけ止まり、

「え……ああ」

 と言いかけてから、小さく首を振る。


「……あってるわよ」


 なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。

でも、一つ足りないと、きっと誰かが文句を言う気がした。


 コウは、皆の視線を避けるように、弁当へ視線を落とした。


 その瞬間だった。


 ――朝まだ暗いうち、戸を叩く音が蘇る。


「コウ! あれくれ、弁当! 卵入ったやつ!」


 寝起きの頭で怒鳴り返した。

「朝っぱらからうるさい!」


 単独任務に出る日だった。

急かすように受け取って、包みを開けるなり卵だけ口へ放り込む。


「……これがあると無事に帰れんだよ。お守りだ」


 そう言って、ぶっきらぼうに出ていった。

礼なんて、ひとつもなかった。


 それでも、あの背中だけは妙にはっきり思い出せた。


「稲吉(いなよし)……」


 コウは、弁当の包みをそっと握る。


 胸の奥が、じわりと温かくなる。


 そのぬくもりが、忘れられていたものを、少しずつ船へ呼び戻していた。


 ムツへ、福童へ、そして端間へ。

言葉ではない形で、確かに伝わっていくものがあった。


「ああ……そうだ」

 ムツが顔を上げた。


 涙にはならない。


 まだ、ならない。


「コウ……」

 戌助が眉を下げ、笑みをこぼした。

それに応えるように、コウは頷く。


「……食べよ、温かいうちに」


 そう言って笑った声は、少しだけやわらかかった。


 食事が終わり、夜は更けていった。

皆は船内で休み、明かりも落ちている。


 ふと、気配に戌助が目を開けた。


 身を起こし、船窓の外を見る。


 洞窟の奥。滝裏へ続く暗がり。

何もないはずの闇が、わずかに揺れた。


 音ではない。

ただ、何かが入り込んだような違和感だけが広がる。


 やがて、岩を踏む気配がひとつ。


 またひとつ。


 さらに、揃った足取り。


 戌助は静かに立ち上がった。

「……何か来る」


 眠る仲間たちは、まだ気づかない。


 波音へ紛れ、影が近づく。


 そして洞窟の奥――

夜の底から、人の形が現れ始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。