一幕 槐
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
https://ncode.syosetu.com/n7558mq/1
山を下りきった五人を乗せ、船は谷へ向かって緩やかに進んでいた。
空はよく晴れ、水面には光が細かく砕けている。
船旅としては、これ以上ないほど楽な日和だった。
――にもかかわらず。
「ちょっと。あんた、前もっと上手くなかった?」
船縁にもたれていたコウが、眉をつり上げる。
舵を握るムツの手元が、ほんの少し遅れた。
帆綱を引く手も半拍ずれ、船首がふらりと揺れる。
端間が即座に手すりへしがみついた。
「うわっ、酔うって!」
「待って、今いろいろ言わないで!」
そう返しながらも、ムツ自身どこか納得のいかぬ顔をしていた。
しばらく水面を見つめ、それからぽつりとこぼす。
「……変なんだよな」
「何が?」
「商いで船に乗ってた俺より、小郡で忍やってた俺のほうに、戻ってきてる気がする」
コウは露骨に嫌そうな顔をした。
「ちょっと頼むわよ……今それ困るやつ」
「俺だって困ってる」
ムツは苦く笑った。
だが、舵を握る指先には力が入りすぎていた。
戌助は腕を組んだまま、心配そうにムツを見ていた。
その視線に気づき、ムツは背筋を伸ばした。
「……大丈夫です、若。着けます」
戌助は小さく頷く。
「頼む」
その横で、福童が穏やかに微笑んだ。
「私も手伝います。何かあれば仰ってください」
「ありがとうございます、春居さん」
ムツは素直に頭を下げる。
そこへ端間が割り込んだ。
「俺も俺も! やばくなったら代わる!」
「小左ヱ門は、大丈夫かな」
「なんでだよ?」
軽口のやりとりには、まだ人の世の気安さが残っていた。
だが、船が谷へ入り込むにつれ、その空気は少しずつ変わっていく。
左右から山肌が迫り、空が細くなる。
水は驚くほど澄んでいるのに、底だけが見えない。
魚影がひとつもなかった。
鳥の声も、枝を渡る獣の気配もない。
ただ、船腹を撫でる水音だけが、やけに大きく響いている。
福童が周囲へ目を巡らせる。
「……人の気配がありませんね」
「人どころか、生き物ごといねぇよ」
端間が声を潜める。
コウは腕をさすった。
「なんか鳥肌立つんだけど」
誰も否定しなかった。
谷はさらに狭まり、岩壁が船のすぐ脇まで迫ってくる。
少しでも舵を誤れば、船腹を削られる距離だった。
自然と五人の距離は近づき、
コウは何気ない顔で、端間の袖を掴んだ。
「ちょ、引っ張んなって」
「うるさい。あんたが落ちそうなの」
「俺!?」
福童は荷が崩れぬよう押さえながら、戌助の後ろへ寄る。
「足元、お気をつけください」
「……うん」
その時だった。
船が岩へ押し返され、大きく傾く。
戌助の身体がぐらりと揺れた。
ムツがとっさに手を伸ばす。
だが、あとわずかのところで止まった。
掴んでいいのか、一瞬迷ったのだ。
その隙に――
「戌助!」
端間ががしっと戌助の腕を掴んだ。
戌助は体勢を戻し、立ち直る。
「ありがとう」
「おう」
ムツは差し出しかけた手を、そっと引っ込めた。
コウがじとりと見る。
「……何してんの、あんた」
「いや、その……」
ムツは俯く。頬まで真っ赤だった。
端間は何も気づかぬまま、戌助の腕を掴んで胸を張っている。
やがて谷の果てに、それは現れた。
天から垂れ落ちる白い壁。
巨大な滝だった。
轟々と落ちる水が視界を埋め尽くし、飛沫が霧のように舞っている。
端間の顔が引きつる。
「やば……」
「ここですね」
福童が荷の隙間から古い地図を広げた。
「この裏に、入口の印があります」
「でもこれ、抜けられるの?」
コウが声を張る。
ムツは舵を握り直し、水流を見た。
だが次の瞬間、表情が固まる。
「……待って」
「え?」
「こういう時、どう切ったらいいか……分からないかも……」
一同、沈黙。
「は?今それ言う!?」
コウがムツの背を叩く。
「いや、本当に思い出せなくて」
端間が青ざめた。
「終わった……」
福童が、すっと前へ出る。
「雪松さん。右へ二尺。次に左へ戻してください」
「……え?」
「中央は巻いています。飲まれます。今なら脇が空いています」
声に迷いはなかった。
「はい!」
ムツは即座に舵を握り直す。
「戌助殿、綱を。端間は反対側を」
「おう!」
「おコウさん、荷を押さえてください」
「はいはい!」
福童が水流を読み、次々と指示を飛ばす。
「今です!」
声に合わせて、ムツが舵を切った。
船は白い瀑布へ真っ直ぐ突っ込む。
轟音と飛沫に包まれ、視界が真っ白に潰れた。
そのとき。
戌助の背を、ふいに風が押した。
体勢が、ふっと前へ流れる。
振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
次の瞬間、船は水の幕を抜けていた。
そこには別世界のような静寂があった。
滝の音だけが遠く響き、周囲は切り立った黒い岩壁に囲まれている。
水の幕の向こうには、岩を穿った洞のような入り江が広がり、奥には船を寄せられる岩棚があった。
誰もしばらく口をきけない。
やがてコウが福童を見た。
「……さすが春居さん。何者?」
福童は涼しい顔で一礼する。
「ただの伊織様付きの雑用係です」
「絶対うそだろ」
端間が即答した。
戌助の口元が、ほんの少し緩む。
船はそのまま岩棚へ寄せられた。
五人は慎重に岸へ降り立った。
湿った岩肌の先――
行く手を塞ぐように、巨大な石門が鎮座していた。
谷そのものを封じるような、異様な門だった。
黒ずんだ石の表面には、古い文字とも紋ともつかぬ刻みが幾重にも走っている。
その上から、無数の白い紙片が垂れ下がっていた。
細長いもの。
菱形に断たれたもの。
古い文字が滲んだもの。
どれも長い年月を経て黄ばみ、湿気を吸って静かに垂れている。
福童が息を呑んだ。
「幻術の本で……見たことがあります」
戌助は門を見上げ、それからムツへ視線を向ける。
「……頼める?」
ムツは一瞬口を結び、すぐに頷いた。
「はい」
門の前へ進み、両手をかざす。
ゆっくりと息を整え、力を練る。
だが、やはり滑らかにはいかなかった。
指先が震え、呼吸も浅い。
絞り出すように、さらに力を送り込む。
その瞬間。
門へ垂れた白札が、かすかに揺れた。
風はない。
それでも紙片だけが、さわさわと囁くように震えている。
次いで、石門の奥で低い気配が脈打った。
まるで、長い眠りの底で、何かがこちらを認識したようだった。
ムツの額を汗が伝う。
白札がさらに揺れる。
だが――それ以上は動かない。
「……っ、もう一度……」
肩で息をしながら、ムツが言う。
福童が門を見回し、ゆっくり口を開いた。
「皆で試してみましょう」
五人で門へ手を置く。
ムツを中心に、再び力を流し込むと――
白札が静かに擦れ合った。
かさ、
かさ、
かさ、と。
それに応じるように、石門から重い唸りが響いた。
黒ずんだ石肌がかすかに震え、門全体が生き物のように軋む。
ふいに、白札の一枚が剥がれ落ちた。
次いで、また一枚。
まるで長く閉ざされていた封が、少しずつほどけていくようだった。
――だが。
そこで変化は止まった。
唸りも消え、白札は再び力なく垂れ下がった。
静寂。
福童は門を見上げたまま、眉を寄せる。
「……何か、足りない」
コウが疲れた顔で返した。
「何かって何よ」
福童はゆっくり首を振る。
「分かりません」
端間も渋い顔で福童を見る。
ムツは悔しげに拳を握った。
皆が門に背を向け、福童へ視線を向ける中――
戌助だけが、一人で門を見ていた。
ゆっくり歩み寄り、ひとりで冷たい石門へ手を触れる。
その刹那。
背後から、もう一つの手がそっと重なる気配がした。
はっと肩を震わせ、戌助が振り返る。
誰もいない。
――だが。
指先に、わずかなぬくもりだけが残っていた。
懐かしい匂い。
次の瞬間――
門に垂れた白札が、ばさり、と一斉に跳ね上がる。
「……!」
無数の白札が、鳥の群れのように宙へ舞った。
激しく擦れ合う音が、羽ばたきのように谷へ満ちる。
ざわざわ、ざわざわ、と。
空気が、揺れた。
長い眠りから目覚めるように、石門の刻みが淡く脈打つ。
次いで、噛み合っていた巨大な岩が、鈍い音を立てながらゆっくり離れていった。
やがて石門は、人ひとりが通れるほど裂けて止まる。
「うそでしょ……」
コウが息を呑む。
「若!?」
ムツが駆け寄った。
戌助自身も、何が起きたのか分からぬまま、門の前へ立ち尽くしていた。
誰も動けない。
「……と、とにかく行こうぜ」
最初に口を開いたのは端間だった。
その一言で、張りつめていた空気がほどける。
戌助が頷いた。
五人は互いを確かめるように目を合わせ、門の内へ足を踏み入れる。
最初に、香木にも似た甘い香りが鼻をかすめた。
その先に広がっていたのは、苔むした岩の地面。
砂糖のように白い壁の家々。
地面に半ば沈む竪穴の住居。
青、朱、蜜色の灯が、薄い鉱石を嵌めた石灯の中で揺れている。
まるで古い神話の底へ迷い込んだような景色だった。
そして、その道の先に立つ者たち。
白狐だった。
二足で立ち、衣をまとい、黒い目でこちらを見ている。
その一瞬、全員が同じ顔に見えた。
端間が息を呑む。
「……なんだ、ここ」
よく見れば、耳の欠け方も、尾の色も、背丈も違う。
最初の一瞬だけ、同じに見えたのだ。
戌助が静かに呟く。
「……槐」
白狐たちが、一斉にざわめいた。




