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一幕 槐

途中の幕からお越しの方へ。

本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。

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 山を下りきった五人を乗せ、船は谷へ向かって緩やかに進んでいた。


 空はよく晴れ、水面には光が細かく砕けている。

船旅としては、これ以上ないほど楽な日和だった。


 ――にもかかわらず。


「ちょっと。あんた、前もっと上手くなかった?」

 船縁にもたれていたコウが、眉をつり上げる。


 舵を握るムツの手元が、ほんの少し遅れた。

帆綱を引く手も半拍ずれ、船首がふらりと揺れる。


 端間(はたま)が即座に手すりへしがみついた。

「うわっ、酔うって!」


「待って、今いろいろ言わないで!」

 そう返しながらも、ムツ自身どこか納得のいかぬ顔をしていた。


 しばらく水面を見つめ、それからぽつりとこぼす。


「……変なんだよな」


「何が?」


「商いで船に乗ってた俺より、小郡(おごおり)で忍やってた俺のほうに、戻ってきてる気がする」


 コウは露骨に嫌そうな顔をした。

「ちょっと頼むわよ……今それ困るやつ」

「俺だって困ってる」

 ムツは苦く笑った。

だが、舵を握る指先には力が入りすぎていた。


 戌助(いぬすけ)は腕を組んだまま、心配そうにムツを見ていた。


 その視線に気づき、ムツは背筋を伸ばした。

「……大丈夫です、若。着けます」

 戌助は小さく頷く。

「頼む」


 その横で、福童(ふくどう)が穏やかに微笑んだ。

「私も手伝います。何かあれば仰ってください」

「ありがとうございます、春居(はるい)さん」

 ムツは素直に頭を下げる。


 そこへ端間が割り込んだ。

「俺も俺も! やばくなったら代わる!」

「小左ヱ門(こざえもん)は、大丈夫かな」

「なんでだよ?」


 軽口のやりとりには、まだ人の世の気安さが残っていた。

だが、船が谷へ入り込むにつれ、その空気は少しずつ変わっていく。


 左右から山肌が迫り、空が細くなる。

水は驚くほど澄んでいるのに、底だけが見えない。


 魚影がひとつもなかった。

鳥の声も、枝を渡る獣の気配もない。

ただ、船腹を撫でる水音だけが、やけに大きく響いている。


 福童が周囲へ目を巡らせる。

「……人の気配がありませんね」


「人どころか、生き物ごといねぇよ」

 端間が声を潜める。


 コウは腕をさすった。

「なんか鳥肌立つんだけど」


 誰も否定しなかった。


 谷はさらに狭まり、岩壁が船のすぐ脇まで迫ってくる。

少しでも舵を誤れば、船腹を削られる距離だった。


 自然と五人の距離は近づき、

コウは何気ない顔で、端間の袖を掴んだ。


「ちょ、引っ張んなって」

「うるさい。あんたが落ちそうなの」

「俺!?」


 福童は荷が崩れぬよう押さえながら、戌助の後ろへ寄る。

「足元、お気をつけください」

「……うん」


 その時だった。


 船が岩へ押し返され、大きく傾く。


 戌助の身体がぐらりと揺れた。


 ムツがとっさに手を伸ばす。

だが、あとわずかのところで止まった。


 掴んでいいのか、一瞬迷ったのだ。


 その隙に――

「戌助!」

 端間ががしっと戌助の腕を掴んだ。


 戌助は体勢を戻し、立ち直る。

「ありがとう」

「おう」


 ムツは差し出しかけた手を、そっと引っ込めた。


 コウがじとりと見る。

「……何してんの、あんた」


「いや、その……」

 ムツは俯く。頬まで真っ赤だった。


 端間は何も気づかぬまま、戌助の腕を掴んで胸を張っている。


 やがて谷の果てに、それは現れた。


 天から垂れ落ちる白い壁。


 巨大な滝だった。


 轟々と落ちる水が視界を埋め尽くし、飛沫が霧のように舞っている。


 端間の顔が引きつる。

「やば……」


「ここですね」

 福童が荷の隙間から古い地図を広げた。

「この裏に、入口の印があります」


「でもこれ、抜けられるの?」

 コウが声を張る。


 ムツは舵を握り直し、水流を見た。

だが次の瞬間、表情が固まる。


「……待って」


「え?」


「こういう時、どう切ったらいいか……分からないかも……」


 一同、沈黙。


「は?今それ言う!?」

 コウがムツの背を叩く。

「いや、本当に思い出せなくて」


 端間が青ざめた。

「終わった……」


 福童が、すっと前へ出る。

「雪松さん。右へ二尺。次に左へ戻してください」

「……え?」


「中央は巻いています。飲まれます。今なら脇が空いています」

 声に迷いはなかった。


「はい!」

 ムツは即座に舵を握り直す。


「戌助殿、綱を。端間は反対側を」

「おう!」

「おコウさん、荷を押さえてください」

「はいはい!」


 福童が水流を読み、次々と指示を飛ばす。


「今です!」


 声に合わせて、ムツが舵を切った。


 船は白い瀑布へ真っ直ぐ突っ込む。

轟音と飛沫に包まれ、視界が真っ白に潰れた。


 そのとき。


 戌助の背を、ふいに風が押した。


 体勢が、ふっと前へ流れる。


 振り返る。


 だが、そこには誰もいなかった。


 次の瞬間、船は水の幕を抜けていた。


 そこには別世界のような静寂があった。

滝の音だけが遠く響き、周囲は切り立った黒い岩壁に囲まれている。

水の幕の向こうには、岩を穿った洞のような入り江が広がり、奥には船を寄せられる岩棚があった。


 誰もしばらく口をきけない。


 やがてコウが福童を見た。

「……さすが春居さん。何者?」


 福童は涼しい顔で一礼する。

「ただの伊織様付きの雑用係です」


「絶対うそだろ」

 端間が即答した。


 戌助の口元が、ほんの少し緩む。


 船はそのまま岩棚へ寄せられた。


 五人は慎重に岸へ降り立った。


 湿った岩肌の先――

行く手を塞ぐように、巨大な石門が鎮座していた。


 谷そのものを封じるような、異様な門だった。


 黒ずんだ石の表面には、古い文字とも紋ともつかぬ刻みが幾重にも走っている。


 その上から、無数の白い紙片が垂れ下がっていた。


 細長いもの。

菱形に断たれたもの。

古い文字が滲んだもの。


 どれも長い年月を経て黄ばみ、湿気を吸って静かに垂れている。


 福童が息を呑んだ。

「幻術の本で……見たことがあります」


 戌助は門を見上げ、それからムツへ視線を向ける。

「……頼める?」


 ムツは一瞬口を結び、すぐに頷いた。

「はい」


 門の前へ進み、両手をかざす。


 ゆっくりと息を整え、力を練る。


 だが、やはり滑らかにはいかなかった。

指先が震え、呼吸も浅い。


 絞り出すように、さらに力を送り込む。


 その瞬間。


 門へ垂れた白札が、かすかに揺れた。


 風はない。

それでも紙片だけが、さわさわと囁くように震えている。


 次いで、石門の奥で低い気配が脈打った。

まるで、長い眠りの底で、何かがこちらを認識したようだった。


 ムツの額を汗が伝う。


 白札がさらに揺れる。


 だが――それ以上は動かない。


「……っ、もう一度……」

 肩で息をしながら、ムツが言う。


 福童が門を見回し、ゆっくり口を開いた。

「皆で試してみましょう」


 五人で門へ手を置く。


 ムツを中心に、再び力を流し込むと――

白札が静かに擦れ合った。


 かさ、

かさ、

かさ、と。


 それに応じるように、石門から重い唸りが響いた。

黒ずんだ石肌がかすかに震え、門全体が生き物のように軋む。


 ふいに、白札の一枚が剥がれ落ちた。


 次いで、また一枚。


 まるで長く閉ざされていた封が、少しずつほどけていくようだった。


 ――だが。

そこで変化は止まった。


 唸りも消え、白札は再び力なく垂れ下がった。


 静寂。


 福童は門を見上げたまま、眉を寄せる。

「……何か、足りない」


 コウが疲れた顔で返した。

「何かって何よ」

 福童はゆっくり首を振る。

「分かりません」


 端間も渋い顔で福童を見る。

ムツは悔しげに拳を握った。


 皆が門に背を向け、福童へ視線を向ける中――


 戌助だけが、一人で門を見ていた。


 ゆっくり歩み寄り、ひとりで冷たい石門へ手を触れる。


 その刹那。

背後から、もう一つの手がそっと重なる気配がした。


 はっと肩を震わせ、戌助が振り返る。


 誰もいない。


 ――だが。

指先に、わずかなぬくもりだけが残っていた。


 懐かしい匂い。


 次の瞬間――


 門に垂れた白札が、ばさり、と一斉に跳ね上がる。


「……!」


 無数の白札が、鳥の群れのように宙へ舞った。

激しく擦れ合う音が、羽ばたきのように谷へ満ちる。


 ざわざわ、ざわざわ、と。

空気が、揺れた。


 長い眠りから目覚めるように、石門の刻みが淡く脈打つ。

次いで、噛み合っていた巨大な岩が、鈍い音を立てながらゆっくり離れていった。


 やがて石門は、人ひとりが通れるほど裂けて止まる。


「うそでしょ……」

 コウが息を呑む。


「若!?」

 ムツが駆け寄った。


 戌助自身も、何が起きたのか分からぬまま、門の前へ立ち尽くしていた。


 誰も動けない。


「……と、とにかく行こうぜ」

 最初に口を開いたのは端間だった。

その一言で、張りつめていた空気がほどける。


 戌助が頷いた。


 五人は互いを確かめるように目を合わせ、門の内へ足を踏み入れる。


 最初に、香木にも似た甘い香りが鼻をかすめた。


 その先に広がっていたのは、苔むした岩の地面。

砂糖のように白い壁の家々。

地面に半ば沈む竪穴の住居。


 青、朱、蜜色の灯が、薄い鉱石を嵌めた石灯の中で揺れている。


 まるで古い神話の底へ迷い込んだような景色だった。


 そして、その道の先に立つ者たち。


 白狐だった。


 二足で立ち、衣をまとい、黒い目でこちらを見ている。


 その一瞬、全員が同じ顔に見えた。


 端間が息を呑む。

「……なんだ、ここ」


 よく見れば、耳の欠け方も、尾の色も、背丈も違う。

最初の一瞬だけ、同じに見えたのだ。


 戌助が静かに呟く。


「……槐(えんじゅ)」


 白狐たちが、一斉にざわめいた。

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