三幕 七の遺した道
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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小屋の中には、しばらく誰も口を開けぬ時間が流れていた。
炭が赤く息をし、火鉢の奥でぱち、と小さな音が鳴る。
外では蝉が絶え間なく鳴き続けていたが、小屋の中は妙に静かだった。
やがてスズシロが鼻を鳴らし、わざとらしく肩を揺すった。
「しめっぽい話はここまでじゃ。年寄りの昔語りなど、腹の足しにもならん」
その時だった。
横で正座を崩そうとした端間が、ぴたりと固まる。
「……あ」
次の瞬間、しびれた足に耐えきれず、ころんと横へ転がった。
「い゛ぃっ……!」
泣き声とも悲鳴ともつかぬ声が、小屋じゅうに響く。
一拍おいて、ムツが吹き出した。
コウが口元を押さえて肩を震わせる。
福童は眉間を押さえながら、深いため息をついた。
「締まりませんね……」
端間は床に転がったまま足を押さえ、涙目でうめく。
「笑うな……っ、これ、ほんと痛ぇんだぞ……!」
スズシロも腹を揺らして笑った。
小屋の中に、久しぶりに人らしい笑い声が広がった。
沈みきっていた空気が、ようやくほどけていく。
だが戌助は、膝の上で拳を握ったままだった。
「……それで、私たちにできることは」
顔を上げる。
過去を知ったうえで、なお前へ進む者の声だった。
スズシロの目が細まる。
「よい顔になったのう。平次郎の倅」
杖を引き寄せ、傍らの古びた葛籠を開けた。
中には巻物や木簡、擦り切れた紙束がぎっしりと詰まっている。
その奥から、一枚の古地図を取り出す。
何度も開かれ、畳まれた跡がある。
端は擦れ、ところどころ黒ずんでいた。
「鬼若子の理を断つ術は――ついに掴めなんだ。
じゃが、力の源へ至る道なら、遺せた」
毛に覆われた爪先が、地図の一点を軽く叩いた。
山々に深く抱かれた谷だった。
人の道は、途中で途切れている。
その奥、巨大な滝の裏側――水流の陰に、細い筆跡があった。
『船入口』
まるで人を拒むように、異様に閉ざされた地形だった。
「そこが、槐の里の入口……」
福童が低くつぶやく。
ムツが身を乗り出した。
「そこへ行けば、何か分かるんですね」
「あるやもしれん。少なくとも、何も知らず抗うよりは遥かによい」
スズシロはそう言ってから、地図を見つめたまま少し黙った。
「……これは、七と共に掴んだ道筋じゃ」
一同が顔を上げる。
「あやつは足が速く、勘も鋭かった。
文句ばかり言いながら、よう働いた」
小さく笑う。
「わし一人では、辿れなんだ」
その笑みに、誰も言葉を挟めなかった。
この名がスズシロにとってどれほど大切か、それだけは十分に伝わっていた。
獣の指が、地図の折り目をそっとなぞる。
「せめて次に挑む者が、迷わぬようにな」
戌助は、地図から目を離せなかった。
七という人もまた、誰かを案じ、先の世のために動いたのだ。
その気質は、どこか稲吉に似ている気がした。
胸の奥が、少し熱くなる。
スズシロは地図を巻き直し、戌助へ差し出した。
「持ってゆけ」
戌助は両手で受け取った。
ずしりと重かった。
紙の重さではない。
積もった歳月と、託された願いの重みだった。
「おぬしらなら、ここまで辿り着ける」
スズシロの目が、一人ずつを見渡す。
「あとは、自分らの足で進め」
ムツとコウが頷く。
端間は力強く胸を叩く。
「任せてください!」
福童は深く頭を下げる。
「必ず」
その時、スズシロが味坂を見た。
「味坂」
「……あ?」
「おぬしは別に動け」
味坂が眉を上げる。
「稲吉――壱左を探せ」
室内に、一瞬静けさが落ちた。
味坂は鼻で笑う。
「確かに居ねぇな……うるせぇのが」
戌助が、まっすぐ頭を下げた。
「……頼みます」
味坂は少しだけ目を細めた。
「似合わねぇぞ、そういう顔」
そう言いながらも、悪い顔ではなかった。
「だが、顔がわからん。こう、小生意気だったことぐらいしか」
スズシロは筆と紙を引き寄せる。
「少し待て」
さらさらと迷いなく筆が走る。
描き上げた顔を味坂へ渡す。
味坂は一目見て眉をしかめた。
「……女か?」
「母親似じゃ」
即答だった。
端間が吹き出し、コウも訳もなく笑い出す。
戌助だけが、その顔を思い浮かべてくすりと笑った。
いつもの憎まれ口が聞こえてくるようだった。
張りつめていた空気が、また少し和らいだ。
味坂は紙を懐へねじ込み、立ち上がる。
「そんじゃ、行ってくらぁ」
「行先に心当たりはあるのですか」
福童の問いに、スズシロの目がわずかに陰る。
「ああ。
……ある。そうでないことを祈るがな……」
誰も、その意味を問えなかった。
やがて一行も立ち上がる。
戌助は地図を懐へ収め、深く一礼した。
「必ず、伊織様を連れ戻します」
「うむ」
福童と端間も頭を下げる。
コウは五郎丸の頭を撫で、ムツは静かに戸を開けた。
陽の光が差し込む。
一人、また一人と外へ出ていく。
最後に戌助が振り返った。
スズシロは小さく頷いた。
戸が閉まり、小屋に静けさが戻る。
火鉢の炭だけが、かすかに赤い。
スズシロは誰もいなくなった戸口を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「七よ」
口元が、かすかに震える。
「おぬしが命懸けで掴んだ道が……ようやく、おぬしの子らを助けるぞ」
天井を仰ぎ、何度かゆっくりと瞬きをする。
こぼれそうなものを、そうして奥へ押し戻すように。
やがて、泣きそうな顔のまま、声もなく笑う。
笑みの名残が消えた瞬間、片耳が、びくりと痙攣した。
骨の軋むような音が、背の奥で鳴る。
次いで身体が大きく波打ち、獣じみた荒い息が漏れた。
それでもスズシロは身を起こし、歯を食いしばった。
「……まだじゃ」
「倒れるには、まだ早い」




