二幕 四傑の熾火
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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岩倉外れの山道は、夏の陽光を受けながらも、木陰はひんやりとしていた。
蝉の声が木々の間を満たし、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
鬱蒼とした下草の奥で、ときおり鳥が短く鳴いた。
先頭を歩く福童は、迷いなく足を進めている。
「本当にこんなところにいるの?」
後ろから、肩で息をするコウがぼやいた。
「いると思います」
「"思います"って」
「確証はありません。ですが――ここは、スズシロ様が人目を避ける折、よく使われた場所です」
端間がきょろきょろと辺りを見回した。
「春居、来たことあんのか」
福童は少しだけ目を細める。
「幼い頃に何度か。伊織様と私を、狩りに連れて来てくださいました」
木漏れ日が、その横顔を淡くかすめた。
「その時に仰ったのです。――ここは秘密だ、と」
ムツがくすりと笑う。
「秘密の場所って、大人は子どもに教えたがりますよね」
「それ、秘密になってなくない?」
コウが肩をすくめた。
やがて木立が開けた。
山肌を削った小さな平地に、半ば崩れた小屋が一軒だけ建っている。
板壁は歪み、屋根の藁もところどころ抜けていた。
人の気配はない――そう見えた。
だが次の瞬間、脇の茂みから毛むくじゃらの塊が飛び出した。
「うわっ」
端間がのけぞる。
塊は一直線にコウへ飛びつき、そのまま胸元へ頭を突っ込んだ。
「きゃっ、ちょ、ちょっと!」
犬だった。
野犬にしては妙に馴れ馴れしい。
「……五郎丸?」
コウが目を丸くする。
五郎丸は尻尾を千切れそうな勢いで振り、嬉しげに鼻を鳴らしている。
その感触に、ふいに何かが胸の奥で繋がった。
「あ……」
ふと顔を上げると、戸口の影に男が立っていた。
腕を組み、面倒くさそうにこちらを見下ろしている。
味坂だった。
「遅ぇよ」
鼻で笑うように言う。
だがその表情には、わずかな安堵が滲んでいた。
戌助が軽く会釈する。
コウの顔色が変わった。
「味坂さん!?」
ムツも息を呑む。
「あ、思い出した……!」
コウが五郎丸の頭を押さえながら笑った。
「五郎丸来なかったら、まだぼんやりしてたかも」
味坂が呆れた様子で言い捨てた。
「俺は犬以下か?」
五郎丸は気にも留めず、まだコウの周りを跳ね回っている。
味坂はその頭を軽く小突いて脇へどかすと、顎で中を示した。
「入れ」
その声は、いつもの気の抜けた調子ではなかった。
小屋の奥から、ゆっくりと小さな影が現れる。
杖をついた狸だった。
茶の毛並み。
片耳は欠け、背は丸い。老いた獣の姿だった。
だが、その目だけは刃のように澄んでいた。
「……来たか」
スズシロだった。
福童と端間は、同時に膝をついた。
「ご無沙汰しております」
「スズシロ様」
味坂も壁際へ退き、わずかに頭を下げる。
粗野な男なりの、はっきりとした礼だった。
コウはそっとムツの袖を引く。
「……ねぇ、あれ着ぐるみ?」
ムツは真顔のまま、人差し指を口元へ当てた。
それから黙って首を横に振る。
触れない方がいい。その意思は十分すぎるほど伝わった。
コウは即座に口をつぐむ。
スズシロは何も言わず、ただ片目だけ細めた。
「入りなさい。山道は堪えただろう」
小屋の中は狭かったが、驚くほど整っていた。
古地図、干し草、干物、巻物、薬草。
雑然としているようで、すべてに置くべき場所がある。
全員が腰を下ろすと、戌助が口を開いた。
八坂のこと。
伊織が鬼若子の器にされたこと。
仲間たちの縁が断たれ、記憶が裂かれたこと。
語るほど、室内の空気は重くなっていく。
スズシロは黙って聞いていた。
やがて、深く息を吐く。
「八坂殿は……やはり、そこまで手を伸ばしたか」
福童が静かに問う。
「あの力のことを、ご存知なのですね」
スズシロはしばらく黙っていた。
その沈黙は、古い墓の前に立つ者のようだった。
やがて低く言う。
「ああ。よく――知っておる」
戸口の外で、鳥が一声鳴いた。
「わしは、あの力を間近で見たことがある。
――昔、一度。あれで戦の天秤が傾いた」
戌助が目を見開く。
スズシロはゆっくりと指を折った。
「赤き影。
白き爪。
龍の風。
無銘の知恵――」
「世の者は――春日の四傑、と呼んだ」
福童が息を呑む。
軍記物の片隅にだけ残る、半ば伝説めいた名だった。
「……東西百年続いた戦を、終わらせかけた酔狂どもよ」
懐かしい名を口にするような声だった。
そこで一度、スズシロは目を閉じ――静かに続けた。
「赤き影は、化野平次郎」
戌助の肩が揺れる。
「白き爪は、稲吉七」
コウの目が細くなる。
「龍の風は、六ツ門松風」
ムツの指先が膝の上で止まった。
「そして――無銘の知恵。鈴原真白」
スズシロは自らの胸を、ぽんと叩く。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
味坂が、無言で座り直した。
胡坐を解き、膝を揃える。
いつもなら壁にもたれて人の話を聞く男が、自然と背筋まで伸ばしていた。
その所作だけで、この狸が何者か知れた。
戌助の喉が、かすかに鳴る。
「父上たちが……」
「そうじゃ。おぬしらの父母、その世代の話よ」
スズシロの声は穏やかだった。
だが、長い年月の底から響いてくるようでもあった。
「じゃが、岩倉は鬼若子の力を使った」
「わしらの名は消えた。
功も、絆も、戦った証もな」
「四傑など、最初からおらなんだ。そういう世になった」
小屋の空気が、すっと冷える。
蝉の声が、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
「……それこそが、岩倉の狙いじゃった」
ムツが息を呑む。
コウは口元を押さえた。
端間も珍しく何も言わない。
スズシロは、自分の前足を見下ろし、ぽつりと落とした。
「……覚えておったのは、わしだけじゃった」
「皆が平次郎を頼りにしていたことも。
七が、よう笑う娘だったことも。
松風が、真っすぐすぎる男だったことも……」
「くだらんことで喧嘩して、酒を飲めばすぐ肩を組んでおった」
味坂が俯き、深く息をする。
戌助の胸にも、鈍い痛みが走った。
届かぬ相手へ手を伸ばす苦しさは、よく分かった。
「ただ、七だけは、一度戻ってきてな。
……思い出して、わしの名を呼んでくれた」
その瞬間だけ、スズシロは昔を見るように視線を上げ、微笑んだ。
「……あれは、嬉しかった」
笑みは、すぐに消えた。
「じゃが、それも束の間。
それからは何度話しても、誰も振り向いてはくれなんだ」
戌助だけが、まっすぐスズシロを見ていた。
やがて、スズシロはふっと笑う。
泣くのを忘れた者のような、乾いた笑みだった。
「じゃが――まだ終わっておらん。
おぬしらがおる」
「断たれた縁を、もう一度つなぎ直した者たちが」
戌助たちを見渡すその目に、かすかな火が戻る。
ムツが目を見開く。
コウは唇をぎゅっと結んだ。
「わしらには叶わなんだことを――
……やってみせよ」
その笑みは、今にも崩れそうで。
それでも、熾火のように確かに強かった。




