一幕 出発
途中の幕からお越しの方へ。
本作は一章から続く物語です。第一話はこちらから。
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丹古の朝は、夜とはまるで別の町だった。
昨夜の喧騒が嘘のように、通りは静まり返っていた。
潮の名残だけが薄く風に混じっている。
軒先には水が打たれ、眠たげな猫が一匹、桶の影で欠伸をしていた。
宿の一室にも、淡い朝の光が差し込んでいる。
奥の布団では、御井がまだ眠っていた。
熱は下がり、呼吸も穏やかだ。
だが、起こして歩かせるにはまだ早い。
支度を終えたころ、戌助が枕元へそっと紙を置いた。
「なんて書いたの?」
背後から覗き込んだコウが聞いた。
「沢山食べろ。死ぬな。――戌助」
「ちょっと、うそでしょ」
コウが吹き出す。
つられるように笑いが広がる中、端間はふと御井の寝顔を見た。
「こいつ、覚えてるかな」
戌助は御井を見下ろし、それから端間へ目を向けた。
「大丈夫だよ」
迷いのない声だった。
端間はしばらくぽかんとしていたが、やがて安心したように笑う。
「……そっか」
部屋の隅では、福童が旅支度を整えていた。
帳面を風呂敷へ包み、筆を差し込み、乱れひとつない所作で立ち上がる。
「では、参りましょう。――と、その前に」
腰帯を締めながら続けた。
「私たちは雪松さんの商路を辿って、ここまで来ました」
「俺の?」
ムツが目を丸くする。
「荷の流れ、港の出入り、人足の証言……久留米の商いは規模も大きいですから、見当はつきます」
コウが呆れたように眉を上げた。
「ほんと、忍なのに全然忍ばないわね、あんた」
小さな笑いが起きる。
だが福童は、そのまま静かに続けた。
「同じことは、八坂殿にも可能でしょう。
商船に乗り続けるのは、得策ではありません」
空気が引き締まった。
ムツはすぐに頷く。
「久留米の船は、港で別の者に引き継ぎます」
「助かる」
戌助がムツを見た。
ムツは少しだけ嬉しそうに目を伏せる。
やがて支度を終え、一行は宿を出た。
戸口を閉める前に、戌助だけが振り返った。
布団の中で、御井は寝返りを打つ。
何事もないように、鼻を鳴らしていた。
「行ってくる」
返事はない。
だが、それでよかった。
朝霧の港へ降りると、小さな舟が波間に揺れている。
沖には、岩倉の山影が薄く霞んでいた。
乗り込む直前、戌助は海の向こうを見る。
胸の奥で、ひとつ名を呼んだ。
――稲吉。
波が、静かに岸を打っていた。




