三幕 足りない声
コウは腹を抱え、しゃがみ込んだまま顔を上げられずにいた。
「っ、むり……っ、春居さん今の反則……」
思い出すたび、笑いが込み上げてくるらしい。
福童は眉ひとつ動かさず、静かに言った。
「おコウさん、少々笑いすぎです」
その言い方がまた火に油を注ぎ、コウは畳を叩いて悶えた。
福童の腹の虫を境に、
張りつめていた空気も、少しずつほどけていった。
やがて宿の女中が膳を運び込んできた。
湯気の立つ汁物。
焼き魚、煮しめ、白い飯。
端間は待ちきれず、真っ先に箸を伸ばす。
「俺、一番でかいやつ!!」
「あ、待ちなさい!」
コウが笑いながら魚を奪い返した。
「これはあたしの~」
口へ運ばれた魚を見て、端間も負けじと叫ぶ。
「ずりぃ! 太るぞ!」
間髪入れず、げんこつの音が飛んだ。
その横で、ムツはさりげなく戌助の膳へ汁椀を寄せる。
「若、傷に障りますから、ちゃんと食べてください」
言いながら、箸まで揃えて置いた。
戌助は何か言い返しかけ――結局、諦めたように飯を口へ運ぶ。
福童は、肩の力を抜いたようにその様子を眺めていた。
口元には笑みが浮かんでいる。
「……やれやれ」
御井だけは布団の上で大の字になり、すうすうと寝息を立てていた。
その賑やかさがひと巡りしたころだった。
戌助が、茶碗を置く。
「……稲吉を探そう」
箸の音が止まった。
ムツが瞬きをする。
「えっと……誰、でしたっけ」
端間も首をかしげた。
「いなよし?」
福童でさえ、わずかに眉を寄せる。
コウは少し考え、それから肩をすくめた。
「ほら、あんたしか覚えてないって……影薄かったんじゃないの?」
一拍。
そして皆、ふっと笑ってしまった。
端間が吹き出し、ムツまで耐えきれず口元を押さえる。
福童も、咳払いでごまかした。
戌助も、口元だけは笑った。
だが――違う。
酒瓶を抱えて上機嫌になり、「今日は潰れねぇ」と豪語して、三口で沈む男だった。
そのたびムツが呆れながら身体を引きずり、コウが水を持って走り、本人だけがへらへら笑っていた。
ここに居れば、そんな光景があったはずだった。
それを、誰も覚えていない。
胸の奥へ、冷えた石のような重みが沈む。
福童が静かに茶碗を置いた。
「鬼若子の理を解くなら、スズシロ様を頼るほかありません」
笑いでほどけた空気が、わずかに引き締まる。
福童は続けた。
「明朝、岩倉外れの隠れ家へ向かいましょう。
その方のことも、そこで手掛かりを探します」
戌助が低く言う。
「稲吉壱左だ。名前」
福童は一瞬まばたきをした。
その名を聞いてもなお、記憶の糸へ触れぬような顔だった。
それでも、静かに頷く。
「――承知しました」
誰も異を唱えなかった。
やがて膳が下げられ、灯火も落とされていく。
コウは横になるなり、すぐ寝息を立てた。
端間はそれより早く、豪快ないびきを響かせている。
福童は死人のように端正な姿勢で仰向けになり、片手では、端間がどこかへ転がっていかぬよう着物の裾をしっかり掴んでいた。
ムツは眠る前に、もう一度戌助の包帯を確かめ、ようやく横になる。
ふと、御井の包帯を替え忘れたことに気づいた。
だが眠気のほうが勝った。
隣の布団では、御井が時折むにゃむにゃと何かを呟いていた。
戌助だけが、眠れなかった。
きっと大丈夫だと、自分へ言い聞かせる。
懐の櫛へ、そっと触れた。
そのぬくもりを頼りに、静かに目を閉じる。




