二幕 やり直し
福童は、端間の問いを受けてもすぐには口を開かなかった。
灯火の揺れを見つめたまま、やがて静かに語り始める。
「若君様を失われたのち、伊織様は深く心を閉ざされました」
部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく。
戌助の中で、かつての伊織の笑顔が、遠く霞んで見える。
「そこへ八坂殿が声をかけられました」
「――運命は、変えられます、と」
遠くで、三味の音がひとつ鳴った。
誰かの笑い声が、窓の外を流れていく。
「八坂殿は伊織様を、鬼若子の力を祀る地――槐の里へ連れて行かれました」
ムツが小さく息を呑んだ。
「……見ていたんですか」
「いいえ。
……その折のことは、伊織様ご自身より伺っております」
福童は言葉を選ぶように息を吐き、続ける。
「槐へ向かう道中、八坂殿は伊織様にこう申されたそうです」
「呪いたい運命だった、と。
共に変えよう、と」
戌助の目が細くなる。
コウの喉が、かすかに鳴った。
「……伊織様は、それを受け入れられた」
まるで、遠い場所の風景が一瞬だけそこに重なる。
暗い社。
濡れた石段。
差し出される手。
寄り添うように並ぶ、二つの影。
福童は静かに続けた。
「ですが――力を得たのは、八坂殿ではありません」
一拍。
「伊織様です」
皆の視線が上がる。
「伊織様が器となり、鬼若子の力を宿しました。
八坂殿はあの夜――その御力を用いたのでしょう。 」
戌助の拳が、膝の上で強く握られた。
「失ったものを取り戻すため。
過ぎた時をやり直すため。
――そして、人の縁そのものを織り替え、望む世へ変えるために」
ムツの手が、包帯の端を握りしめた。
コウが吐き捨てる。
「勝手ね」
福童は小さく頷く。
「伊織様も、すべてをご存じないわけではないでしょう」
端間が顔を上げる。
「じゃあ、なんで……!」
「責めきれぬのです」
福童の声が、わずかにやわらぐ。
「昔の八坂殿をご存じだからでしょう。
いつか、あの頃のように戻ってくださると、信じておられます」
そして、静かに続けた。
「若君様を失い、心を閉ざされた伊織様に……八坂殿は寄り添われました」
「岩倉へ来たばかりで、まだ何者でもなかったあの方に、手を差し伸べたのは八坂殿です」
端間が、唇を引き結んだ。
福童は目を伏せ、一拍置いた。
「伊織様ご自身にも……やり直したい思いが、おありなのかもしれません」
“やり直したい”
その一言だけが、やけに重かった。
「ですが、このままでは伊織様も鬼若子に呑まれます。
御井殿が妖に侵されたように」
福童は静かに、眠る御井へ目を向けた。
戌助の表情が険しくなる。
「ただし、比べものにはなりません。
鬼若子は、その辺の妖とは格が違う」
灯火が、ぱちりと鳴った。
「古き祭祀に名を残す禍つ霊格――」
福童の声が、低く落ちる。
「人の願いに巣食う、神にも似た災いです」
窓の外では、まだ誰かが笑っていた。
その賑わいだけが、やけに遠かった。
端間がたまらず、勢いよく立ち上がる。
「そんなの……っ
なんで言わなかった!!」
福童はわずかに眉を寄せた。
「あなたには、過ぎた事実かと……」
「ふ…ざけんな。もう子供じゃない」
端間の拳がぎゅっと握られる。
「俺にも、背負わせろよ」
部屋が静まり返る。
声は荒く、震えていた。
それでも端間は、誰より大人の顔で立っていた。
福童はしばし黙し、やがて深く頷く。
「……わかりました」
端間は鼻をすすり、どかりと座った。
沈黙を断つように、戌助が言う。
「……助けよう」
ムツが強く頷いた。
「はい」
コウが肩をすくめる。
「うん、行くしかない!」
端間も、腕を組んだまま深く頷く。
張りつめていた空気に、少しずつ熱が戻っていく。
――その時。
ぐうう……
やけに素直な音が、部屋いっぱいに響いた。
全員の視線が、ゆっくり福童へ向く。
福童は背筋を伸ばしたまま、耳だけ少し赤くしていた。
「……長話になりましたので」
コウが吹き出す。
「春居さん、おなか鳴るんだ」
ムツも笑いをこらえきれない。
戌助がふっと笑い、「ご飯にしよう」と声をかけた。
座敷に、ようやく夕餉の気配が差し込んだ。




