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一幕 鬼若子の代償

 丹古(たんご)の夜は遅い。

窓の外では、まだどこかで笑い声がしていた。


 杯のぶつかる音。

酔客のどなる声。

遠くで鳴る三味の音。


 興行場の熱が、そのまま街じゅうへ流れ込んでいるようだった。

だが、裏路地の古びた宿の一室だけは静かで、灯火がひとつ、畳へ淡い橙を落としている。


 明かりの中、戌助(いぬすけ)は上衣を脱ぎ、肩の傷を見せたまま座っている。

その背後では、ムツが包帯を手にしていた。


「自分でやる」

「だめです」


 即答だった。


「片腕でどうやって巻くんですか」

「……なんとかなるよ」


「なりませんよ」

 言い切ると、ムツは困ったような顔のまま、ぐいと戌助の肩を引き寄せた。


 包帯がきゅっと締まる。


「痛い」

「じっとしてください」


 向かいで見ていたコウが吹き出した。

「なにこれ。既視感すごい」


 端間(はたま)も腹を抱えて笑う。

「よかったな戌助。世話焼きが戻ってきたぞ」


 ムツは無言で端間を見た。

にこり、と笑う。だが、目だけが笑っていない。


 端間はすっと口を閉じた。


 部屋の奥では、御井(みい)が静かに眠っていた。

獣皮は外され、傷の手当ても済んでいる。


 戌助は、その寝顔へ視線を向けた。


 荒々しい気配は消え、だらしなく口を開けている。

その様子が、元の御井そのもので、少しだけ安堵した。


「御井殿は、おそらく獣の妖に呑まれていたのでしょう」


 ふいに、部屋の隅から福童(ふくどう)が言った。


「え、あれ妖(あやかし)だったの?」

 コウが振り返る。


 福童は正座したまま背筋を伸ばし、眠る御井を静かに見ていた。


「ええ。理を失い、力のみが膨らんでおりました。

 興行の者たちは、それを利用していたのでしょう」


 コウが眉をひそめる。

「……最悪ね」


 福童はそこで一度、言葉を切った。

やがて、静かに視線をこちらへ戻す。


「……そして、それより遥かに厄介な話があります」


 部屋の空気が、わずかに張った。

杯の音も、笑い声も、遠い町のもののように感じられる。


 コウが茶碗を揺らしながら顎をしゃくった。

「……で?」


 福童は前髪を指先で払い、片側だけ耳へ掛ける。

そして、静かに口を開いた。


「皆さまの縁は――一度、断たれています」


 コウの手が、茶碗の縁で止まる。

端間は笑いかけた顔のまま固まり、ムツの手もまた、包帯の端を持ったまま止まっていた。


 戌助だけが、黙って福童を見ている。


 福童は続けた。


「岩倉にて、伊織(いおり)様が八坂(やさか)殿のもとへ戻られた折。

 あの場で用いられたのは、ただの幻術ではありません」


「――“鬼若子(おにわこ)の力”です」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 静かな声が、部屋へ溶けていく。


「人の縁を、糸で織られた布とするなら――」


「糸をほどく。

 別の場所へ結ぶ。

 新しい柄へ織り直す」


「すなわち、誰かと他人になる。

 別の生を歩んだように思う。

 記憶も、関わりも、そうであったものとして塗り替えられる」


「――恐ろしい力です。」


 灯火が、小さく揺れる。

畳の上へ、沈黙が落ちた。


 あの違和感。


 知っているはずなのに、どこか遠い空気。

説明のつかなかった感情の揺れ。


 すべてが、一本の糸でつながっていく。


 その静けさの中、戌助が口を開いた。

「……糸は、そう簡単には切れない。

一度結ばれたものなら、なおさら」


 誰へ向けたともなく、言葉が落ちる。

ムツが目を伏せた。

コウは少し照れくさそうに首を傾げ、肩をすくめる。


 戌助は続けた。

「形を変えても、めぐりめぐって……また重なることもある」


 福童が、わずかに頷く。

「……だから、皆さまは再び出会えたのでしょう」


 部屋に、あたたかな静けさが満ちた。


 奥で眠る御井へ、福童が視線を向ける。

「御井殿も、目覚めれば可能性はあります」


「戌助さんや私たちのように、影響が薄く済んだ者もおります」


 そして、静かに言い切った。


「――希望はあります」


 その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。

だが、部屋が少しだけ明るくなった気がした。


 やがて、端間がぽつりと口を開く。


「じゃあ……伊織様も、戻せるんだな」


 その瞬間。

福童の表情が、わずかに曇った。


 灯火が、かすかに揺れた。

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