一幕 獣
会場には、異様な緊張が満ちていた。
高揚とも怯えともつかない息づかいが、場に渦巻いていた。
歓声を上げる者はいない。笑う者もいない。
ただ、これから何かが起こると知る者たちだけが、固唾をのんで見守っていた。
カンッ
合図の拍子木が、高く鳴る。
だが――誰も動かない。
それまで会場を埋めていた喧騒が、嘘のようにしぼんでいく。
戌助と、獣皮をまとった闘士。
ふたりは円を描くように、じり、じりと足を運んだ。
肩の向き。
重心の置き方。
呼吸の長さ。
互いに、互いを測っている。
戌助の意識が、さらに研ぎ澄まされる。
(あれが、そうなら……
速さは互角。技で押し負けるかもしれない)
腰の刀へ指を添える。
獣皮の奥、見えない顔。
だが、その立ち姿にはどこか覚えのある影があった。
(一瞬でも捕えられたら、先はない)
わずかに足をずらす。
(まず、撹乱して――)
次の瞬間。
戌助の姿が消えた。
遅れて、金属音が爆ぜる。
客席がどよめいた。
「見えねぇ!」
「今ぶつかったのか!?」
二つの影が交差し、離れ、またぶつかる。
打ち合うたび、火花だけが遅れて散った。
常人には追えぬ速さだった。
戌助の頬を、汗がひと筋伝った。
瞬きひとつ、許されない。
コウとムツは、わずか後方で構えたまま動けずにいた。
速すぎる。
下手に割って入れば、戌助の邪魔になる。
だが、取りこぼした瞬間だけは飛び込めるよう、二人とも相手の足運びを凝視していた。
コウのこめかみに汗がにじむ。
(なによ、あれ……)
相手の正体は分からない。
それでも、ただの人間ではないと本能が告げていた。
再び火花が散る。
戌助の刃が相手の脇をかすめた。
だが獣皮の闘士は、身体を折るような奇妙な動きでかわし、そのまま低く潜り込む。
「っ」
戌助が跳ぶ。
刃が鼻先を抜けた。
(違う)
戌助の胸中を、違和感が走る。
知っている刀筋に似ている。だが微妙に違う。
本来踏み込まない間で踏み込み、来るべきところで来ない。
さらに、客席の灯りが刃へ反射した瞬間――首がぴくりと跳ね、獣のような速さで反応した。
理で戦っていない。
獣が牙を振るうように、ただ“殺せる軌道”だけを選んでくる。
(あいつなら、ここでは来ない)
しかし、読んだはずの間合いへ、遠慮なく踏み込まれる。
読みが噛み合わない。
ついに戌助の拍子が狂った。
「戌助!」
コウが飛び込み、ムツの槍も伸びた。
だが闘士は、その援護を紙一重ですり抜け、飛んだ。
次の瞬間。
ぐっ……と鈍い音が響いた。
戌助の肩口へ、刀が深く食い込む。
血が散った。
会場が、一拍遅れて沸いた。
「入ったァ!!」
「やれやれ!」
「死ぬぞ!」
戌助の膝が、わずかに沈んだ。
背筋を、冷たいものが走った。
闘士の目が光り、追撃の踏み込みが始まる。
「待って……!!」
コウが戌助の前へ飛び出し、両手を広げた。
しかし、止まらない。
ぎゅっと目をつむったそのとき――
「規約違反です!!」
場違いなほど澄んだ声が、熱狂を裂いた。
観客席の一角に、分厚い帳面を抱えた福童が立っている。
「第七十五条! 戦意喪失者への追撃、これを禁ず!」
「第三十一条! 死者の数を賭けの対象とすること、これを禁ず!」
しん、と会場が静まり返った。
その後ろから、ひょこ、と別の顔がのぞく。
「……多分それ、守ってるの春居だけだと思うけどな」
端間だった。
「春居さん!? 小左ヱ門も!?」
コウが目を見開く。
ムツも言葉を失っていた。
福童はずかずかと階段を下り、差配役の男の前へ立つ。
「条文によれば!」
帳面を、ばしん、と開いた。
「興行者の同意があれば、出場者の差し替え――助太刀人の投入が可能とあります」
差配役の男が固まる。
「……は?」
「ですよね?」
妙に圧のある笑顔だった。
「い、いや……まぁ、書いてあるなら……」
「ありがとうございます」
福童は満足げに頷き、振り返る。
「では、戌助殿の代わりに、こちらから小左ヱ門を参加させます」
「は?……殺す気かよ!!」
端間が素っ頓狂な声を上げた。
「安心なさい。考えがあります。――あなたにしかできません」
福童は真顔で言う。
「その言い方、絶対ろくでもねぇやつだろ……」
ぼやきながらも、端間は闘場へ降りていく。
ムツが、とぼとぼとやってきた端間の手元を見た。
「……なんで木刀?」
端間は口元へ手を添え、こっそり答える。
「あのバカが、“必要以上に傷つけてはならない”って書いてるって、うるさくてさ」
コウが呆れたように口を開いた。
「ああそう……」
戌助は血のにじむ肩を押さえながら、端間を見る。
端間はまっすぐ戌助を見返した。
「やってみる」
相手はまだ息が荒く、足もわずかに重い。
戌助との一戦が効いている。
端間は中央へ進み、獣皮の闘士を見据えた。
「……いくぜ」
喉が、ごくりと鳴る。
胸の震えが止まらない。
気を抜けば、膝が崩れそうだった。
戌助が捕えられなかったものを、自分が倒せる道理などない。
それでも、今は福童を信じるしかなかった。
獣皮の闘士が、ゆっくりと刀を上げる。
――次の地獄が、始まろうとしていた。




