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三幕 三人で

 戌助(いぬすけ)には、一瞬、何が起きたのか分からなかった。


 懐かしい声が響いたかと思うと、のしかかっていた十人の身体が一斉に宙へ浮き、壁や地面へ叩きつけられる。


 肺を潰していた重みも、息苦しさも、嘘のように消えていた。


「……っ」

 砂煙に咳き込みながら顔を上げる。


 そこに、ムツが立っていた。


 自分を庇うように、半歩前へ出ている。


 肩で荒く息をしながら振り返った顔は、今にも泣き出しそうなくらい眉が下がっていた。


「若ぁ……無茶しないでくださいよ……!」


 責めるでもなく、怒るでもない。

安心と心配が、一度に溢れてしまったような声だった。


 戌助の喉が、わずかに震える。


 ――ああ。


 この顔だ。


 戌助はゆっくり立ち上がり、土を払った。


「……おかえり」


 ムツが目を丸くする。

そして、少しだけ顔を伏せた。


「すみませんでした……」


 戌助は何も言わず、柔らかく笑う。

ムツもつられるように笑い返し、それから一度だけ深く息を吐いた。


 その横で、コウがはっと息を呑んだ。


「若……って……」


 手が、ゆっくり口元へ上がる。

「ああ、私たち……」


 忘れていた景色が、一気に胸へ流れ込んだのだろう。

その目に、涙が滲む。

だが、感傷に浸る間はなかった。


 地面へ転がっていた者たちの何人かが、ぎこちなく身体を起こし始める。


「まだ来る」

 戌助が構えた。


 ムツが静かに前へ出る。

「一緒に――合わせてください」


 ゆっくりと息を吸い、槍を持ち直す。

自然に、左手が前へ出た。


 その額に、じわりと汗が滲む。


 ――何も起きない。


 コウが目を見開いた。

「ムツ?」


 ムツは答えない。

唇を引き結び、指先だけがかすかに震えていた。


(まだ……届かない)


 戌助が隣へ並ぶ。何も言わず槍の柄へ手を添えた。

反対側では、コウが肩を合わせる。


 三人の呼吸が、揃った。


 槍の穂先から、雫がひとつ落ちる。


 その瞬間。

会場に、水音が走った。


 ありもしない波紋が広がり、足元が水面へ変わったように揺らめく。


 起き上がりかけた者たちの足が止まった。

踏み出したはずの膝が揺れ、重心だけが前へ流れる。


 強い波に押されたように、次々と身体が崩れ落ちていった。


「な――」


 ひとりが手を突いた瞬間、その腕をコウが叩き払う。

横倒しになった首筋へ、戌助の峰が落ちた。


 次々と崩れる。


 最後の一人が叫びながら突っ込んでくる。


 コウが半歩ずれて道を開け、その背後へ回った。

振り向いたところへ、ムツの柄が顎を打ち上げる。

男はそのまま白目を剥き、仰向けに倒れた。


 静寂。


 気づけば十人すべてが、地へ沈んでいた。


 三人は自然に背を預け合い、周囲を見渡す。

言葉はない。呼吸だけが、ぴたりと揃っていた。


 次の瞬間。


 会場中が、どよめいた。


 ざわめきは波のように広がり、上階の席まで駆け上がっていく。


「何だ今の……」

「水が……いや、違う」

「さっきまでと動きが別人だぞ」


 差配役の男は、札を持ったまま口を開けて固まっていた。


 やがて、はっと我に返り、声を張り上げる。

「――勝者ァ! 無名組ッ!!」


 爆ぜるような歓声が起こった。


 床を踏み鳴らす音。

銭を打ち鳴らす音。

怒号にも似た熱狂が渦を巻く。


「いよいよ出るぞ!」

「あいつの番だ!」

「春日の化け物を呼べ!」

「今夜も死人が見られる!」


 歓声が、期待と悪意へ変わっていく。


 その時だった。


 奥の鉄扉が、低く軋む。


 ぎぃ……と重い音を引きずりながら、ゆっくりと開いていった。


 暗闇の向こうから、何かが歩いてくる。


 獣の毛皮を幾重にも継ぎ合わせた外套。

人とも獣ともつかぬ影。


 そして、その腰には――見覚えのある刀。


 戌助の目が、鋭く細まった。


 影が、光の中へ一歩踏み出す。


 ――最後の相手が、現れた。

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