一幕 頑固者
熱と鉄の匂いが、鼻へまとわりついていた。
石造りの通路を抜けた先、興行場の内側は外の喧騒とは別の熱を帯びている。
湿った空気。
どこか甘ったるい薬の匂いに、汗と酒、乾ききらない鉄の臭気が絡み合い、息をするたび喉の奥へ重さが残る。
「……あまり長居したい場所ではありませんね」
ムツが小さく呟く。
声は静かだったが、視線は人の流れや奥の扉を絶えず追っている。
「目当ての闘士に辿り着くには、最低でも五つは勝つ必要があります」
「五つ……」
コウが目を丸くした。
「ええ。勝てば、より上の試合へ回される仕組みです」
ムツはそこで一度、戌助に視線をやった。
「……まぁ、客の受け次第で、順が変わることもあります」
「客?」
コウが首をかしげる。
「ええ。……正直、嫌な感じはします」
そう言って目を伏せたムツの横で、戌助はすでに歩き出していた。
「……行くのですね」
「行く」
戌助は振り返らない。
ムツは一瞬だけ困ったように笑い、結局そのあとへ続く。
三人は、準備をする間もなく、すぐに呼ばれた。
錆びついた重い鉄の扉が開き、土の匂いの濃い闘場へ足を踏み入れた瞬間――
歓声がぶつかった。
「新顔だ!」
「女か!? 面白ぇ!」
「顔は残せよ!」
視線が刺さる。
値踏みの目だった。
合図。
相手が踏み込むより早く、戌助が動く。
一歩。
それだけで間合いが崩れた。
刃が走り、空気を裂くような金属音とともに相手の武器が弾かれる。
遅れてコウが背後へ回り、逃げ場を塞ぐ。
二人の動きは、淀みなく噛み合っていた。
――その横で。
「……っ」
ムツが一瞬、遅れる。
踏み込みが浅い。
槍の軌道がぶれ、相手の刃がまっすぐムツへ向かった。
(まずい)
戌助が素早く半歩踏み込み、軌道をずらす。
「す、すみません」
ムツは、引き下がりながら姿勢を戻した。
足運びがぎこちない。
槍を持つ手も、どこか危なっかしい。
観客がざわつく。
「なんだあいつ」
「足引っ張ってんぞ」
「もう一人はおまけか?」
ムツはそれを受け流すように、わずかに苦笑した。
そのまま背後で距離を保っている。
――だが。
逃げたはずの足取りが、一瞬だけ鋭く線を描いた。
すぐに、またぎこちない動きへ戻る。
(……今のは)
戌助の視線が止まる。
ほんのわずかな違和感。
しかし、それを確かめる余裕はない。
戦いはあっという間に終わった。
一瞬の静寂。
次いで、歓声が爆ぜる。
「なんだ今の!」
「速ぇ……!」
評価が変わり、空気が変わっていく。
「……もう終わり?」
コウがきょとんと首をかしげた。
「そのようですね」
ムツはまだ息を整えながら、周囲を見ている。
その間にも、声が飛んだ。
「今夜の当たりだ!」
「次だ、飛ばせ!」
「もっと見せろ!」
ざわめきが押し寄せる。
戌助は眉を寄せ、差配役の男へ視線を向けた。
男はそれに気づくと、肩をすくめて笑う。
「気に入られた。上に上げるってことだ」
「はや……」
ムツが言い終える前に、再び名が呼ばれた。
いくつかの試合は、ほとんど記憶に残らない速さで過ぎていく。
勝つたび歓声は膨れ、視線の熱が増していった。
そして――ふと、空気が落ちる。
建物じゅうの窓という窓が、外から叩きつけるような音を立てて閉められていった。
――ばん。
――ばん。
――ばん。
そのたび、外の明かりがひとつずつ断たれていく。
場内は、ゆっくりと暗さを増していった。
最後の窓が閉じた途端、外のざわめきが完全に消える。
代わりに、重たい静けさが満ちた。
残された松明の火だけが、壁や人影を濃く浮かび上がらせている。
気づかぬ間に、観客が入れ替わっていた。
上階の席に並ぶ者たちは、衣の質も、纏う気配も違う。
笑わず、騒ぎもしない。
誰ひとり身を乗り出さないまま、ただ値踏みするように見下ろしていた。
「何?……嫌な空気」
コウが髪を耳に払う。
ムツも視線を上げたまま、低く返した。
「ええ。ここから先は――」
その言葉を遮るように、声が落ちる。
「賭けを始めろ」
静かだが、よく通る声。
誰かが、くつくつと笑った。
「今日は何人潰れる?」
「三は堅いな」
「いや、あの組み方なら五は行く。足からいくか、首からいくか……見ものだ」
「血が長く出る方がいい。すぐ死ぬのはつまらん」
「叫びが持つやつに張るか」
淡々と、品定めでもするように語られる。
コウの指が、わずかに強張った。
戌助もまた、黙って上階を見上げていた。
誰も、もう言葉を口にしなかった。




