三幕 丹古
潮の匂いが、風に混じっていた。
荷を積んだ久留米の商船は、春日の湊を離れ、ゆるやかに海を割って進んでいく。
舳先が波を切るたび、白い飛沫が陽光に散った。
かつて閉ざされていた岩倉への渡し路。
今は、何事もなかったかのように船が行き交っている。
その“自然さ”が、戌助にはかえって気味が悪かった。
「久留米の船、立派ねぇ」
少し離れたところで、コウが船体を見上げ、風に笑っている。
やがて海の向こうに、ぼんやりと陸地が浮かんだ。
岩倉領だった。
荷を降ろしたあと、一行は港外れで荷車へ乗り換える。
馬の蹄と車輪の軋む音に揺られ、身を任せるうちに時間が過ぎていった。
気づけば、空は夕暮れに沈み始めている。
そして、関所を抜けた瞬間――空気が変わった。
「丹古です」
ムツが言う。
戌助とコウは、思わず上を見上げた。
「ここが……」
丹古は、ひとつの街ではなかった。
幾度も壊され、継ぎ足されたものが、剥き出しに重なっている。
木造の上へ石が積まれ、さらに布屋根が覆いかぶさる。
通路はねじれ、階段は絡み合い、上下の感覚すら曖昧だった。
異なる言葉と匂い、人の熱気が渦を巻く。
街というより、積み重なった時間そのもののようだった。
「まずは宿を取りましょうか」
ムツが慣れたように言う。
その視線は、すでに人の流れと荷の動きへ向いていた。
「私は少し商いの手続きがありますので、ここで」
「え、もう?」
コウが振り返る。
「ええ。夜には戻ります」
そう言って、ムツは人波へ消えた。
「行っちゃった」
コウが軽く手を振る。
戌助は、その背を見送ったまま何も言わなかった。
街に残された二人は歩き出す。
戌助は瓦版へ視線を向け、人の流れと言葉の断片を拾っていった。
だが、そこに大きな動きはない。
――岩倉は変わりない。
――伊織が支えている。
それ以上の話は、どこにも出てこなかった。
(……静かすぎる)
そう思う一方で、それ以上踏み込めないまま時間だけが過ぎていく。
「ねえ、見て!」
コウの声で、戌助は視線を戻した。
少し先の屋台で、甘味の看板が揺れている。
「だんごあった!」
コウは目を輝かせ、無邪気に駆け寄っていく。
「ねえこれきれい……! どれにする!? これとかどう?」
気づけば二人は、橋の欄干に並んで身体を預けていた。
もう、星が出ている。
灯りの点き始めた丹古の下層街を見下ろしながら、団子を口へ運ぶ。
戌助が、不意に言った。
「稲吉のこと、ほんとに覚えてない?」
コウは団子を頬張ったまま顔を上げる。
「うーん、どんな子?」
「……」
「あ、これ蜜柑入ってる。食べる? 美味しいよ」
コウは返事を待たず、団子を差し出した。
戌助は受け取り、小さく息を吐く。
“子”。その呼び方が、妙に噛み合わなかった。
「少なくとも、“子”って感じじゃないかな……」
言いながら、思わず口元が緩み、肩の力が抜けた。
(焦っても仕方ないか……)
甘さが舌に広がる。
その時だった。
「始まるぞ!」
誰かの声が響き、通りの向こうで人々が一斉に走り出した。
街の空気が、一気に変わる。
「今日あの、春日のやつだろ!」
「また死人が出るぞ……」
ざわめきが波のように広がっていく。
「何?」
コウが身を乗り出す。
だが、人の流れはすでに一方向へ押し寄せていた。
「行ってみる」
戌助は、手早くだんごの包みをしまい、歩き出した。
その先にあったのは――街の最上層。
積み上がった建物の頂に、円形の巨大な建物が鎮座している。
闘技場だった。
正面には、石を削り出した獅子の像。
口を開けたまま、観る者を睨みつけている。
入口はすでに閉ざされており、正面からは入れない。
コウは戌助の肩を軽く叩き、屋根の縁から漏れる光を指さした。
重なり合った屋根を駆け、増築された通路の縁を飛び越えていく。
入り組んだ上層の隙間から内部へ身を滑り込ませた直後。
――歓声が渦を巻いた。
熱気と興奮が、空間そのものを揺らしている。
そこにいたのは、ひとりの闘士だった。
獣の毛皮を幾重にも重ねたような外套をまとい、素顔は完全に隠されている。
だが、その動きは異様に滑らかだった。
剣の軌道。
間合いの取り方。
そして――握られた刀。
閃く刃へ、戌助の視線が止まる。
鍛え方が、明らかに異質だった。
小郡の忍衆が使う物に近い。
だが、違う。
視線が、刃から離れない。
――確かめなければならない。
戌助の視線が鋭くなる。
「……出る」
「え?」
戌助は、するりと建物の外へ出る。
「あの闘士の近くに行ってみる」
「ええ!?」
コウの声が裏通りに響いた。
だが、戌助は眉ひとつ動かさない。
「……ああ」
ふいに、聞き慣れた声が背後から落ちる。
振り向くと、人の流れの向こうにムツが立っていた。
すでに商談は終えたらしく、静かにこちらを見ている。
「こんなところに」
「雪松様!」
コウがぱっと顔を明るくする。
だが戌助は間を置かず、まっすぐに言った。
「ムっ――雪松さん。この闘技に参加する方法、知ってる?」
一瞬、空気が止まる。
ムツの視線が、二人をゆっくりと見渡し、わずかに眉を寄せる。
「……おやめください」
声は穏やかだった。
だが、はっきりとした拒絶でもあった。
「ここは、ただ武を競う場所ではありません」
人の流れの向こう、闘場へ視線を向ける。
「殺しも黙認されています。賭けはもちろん、薬のやり取りも横行していて……表に出ている以上に、ずっと深い場所です」
それでも戌助は、ひとつ頷くだけだった。
「……そう」
「そこまで知ってるなら、できるよね」
まっすぐな瞳が、ムツを射抜く。
言い逃れを許さない目だった。
「……」
ムツはしばらく黙った。
困ったように視線を落とす。
そして、小さくため息を吐いた。
「……責任は負いませんよ」
「うん」
即答だった。
「ありがとう。……たぶん、三人で行かなきゃ駄目なんだ」
「はい、……ぇえ!?」
今度はムツが声を上げた。
「私は遠慮したいんですけど……武術は、たしなみ程度にしか――」
「無駄よ。あの子、決めたらもう曲がらないから」
コウがぴしゃりと遮る。
ムツはしばらく言葉を失ったあと、
「……頑固ですね」
半ば呆れたように漏らした。
戌助は、もう一度だけ闘場のほうを見る。
あの闘士。あの刀。
(……あれが、そうであれば、三人でなければ)
脳裏に、並んで歩いた影がよぎった。
ひとりでは届かなくても、三人なら、きっと届く。
遠くで、再び歓声が上がる。
夜の丹古が、さらに深くざわめき始めていた。
その中心へ、自分たちは足を踏み入れようとしている。
何が待っているのかも分からないまま。
――だが、もう引き返すつもりはなかった。




