二幕 知らない人
山間の道を抜けると、風の匂いが変わった。
湿った土と、青い竹の香り。
ざわり、と葉が擦れる音の向こうに、見慣れた門が現れる。
「……」
戌助は、わずかに足を止めた。
(……変わらない)
門も、空気も。
胸の奥の張りがほんの少しだけ緩み、ようやく息をついた。
「ここが、小郡ですか」
隣で、ムツが静かに問う。
門番がこちらに気づき、手を挙げて声をかけた。
「若ー! お戻りでしたか!」
近くにいた忍たちも、次々と頭を下げた。
「若が戻られたぞ」
戌助はそれを受け、
「ただいま戻った」
とだけ返した。
「若…… 」
ムツは目を瞬き、そっと姿勢を正した。
門をくぐると、竹の影が揺れ、村の気配が流れ込んできた。
炊事の煙。
鍛錬する者の声。
木の軋む音。
どれも、知っている。
何も、おかしくない。
おかしいのは、自分のほうなのではないかと思うほどに。
「……戌助?」
ふいに声をかけられ、顔を上げる。
山道のほうから、山菜でいっぱいの籠を抱えたコウが歩いてくるところだった。
袖をたくし上げ、頬にはうっすらと土がついている。
目が合った瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「戌助! おかえりー!」
駆け寄ってきて、その勢いのまま目の前で足を止めた。
「よかった、戻ってたんだ! どこ行ってたの?」
「……」
ほんの一瞬、言葉を選ぶ。
だがその前に、ふと、問いがこぼれた。
「稲吉は」
「……え?」
コウはきょとんとする。
「一緒に、岩倉の任務に行ったよね」
風が、竹を鳴らした。
「誰?……何の話?」
冗談のように、軽い声だった。
だが、目は本気で分かっていない。
「……」
戌助は、何も言えなかった。
言葉が、落ちる場所を失っていた。
沈黙を破るように、コウの視線が横へ流れ――ムツを見る。
「……で、その人は?」
「……迷って、送ってもらった」
戌助は手を後ろに組み、ぽつりと答える。
コウが目を丸くした。
「え?」
「ええ!? なにそれ! あんた、忍でしょ!?」
笑いながら、軽く肩を叩く。
「もー、しっかりしてよ」
そのやり取りは、いつもと変わらない。
変わらないはずなのに。
戌助は、ほんの少し視線を落とした。
「おお」
背後から声がかかる。
振り向くと、コウの祖父――師匠がゆっくりと歩いてきた。
「若、遅かったな」
師匠はムツを見やった。
「おお久留米の……六ツ門家のご子息か」
「はい。ご無沙汰しております」
ムツは深く礼をする。
「父が、平次郎殿には世話になったと」
「そうか」
コウの顔色が変わった。
「え……、六ツ門って、じゃぁあなた六ツ門雪松様?」
はっとして、慌てて袖で頬の泥をぬぐい、乱れた髪を整えようとする。
だが、うまくいかず、かえって乱れる。
「ちょ、ちょっと待って……」
小さく呟きながら必死に整えようとする様子に、ムツはわずかに微笑んだ。
気づいた様子も見せず、そっと距離を保ったまま、
「山から戻られたところですか」
「あ、はい……!」
コウは少しだけ背筋を伸ばす。
「しっかりしておられる。
――すぐにでも良いご縁が見つかりそうだ」
さらりと言う。
一瞬の間。コウの頬がほんのり赤くなる。
「ちょっとやめてください……!
急に、そういうの……」
視線を逸らしながらも、まんざらでもない様子で袖口をいじった。
「失礼しました。商いの癖で」
ムツはやわらかく笑う。
誰にでも向けられる、綺麗な笑い方だった。
そのやり取りを見て――戌助は、わずかに息を止めた。
(……知らない顔だ)
ムツは、こんなふうにうまくはなかった。
もっと、まっすぐで。
そのくせ、不器用で。
気遣っているつもりで、肝心なところが抜けているような。
……そんな人だった。
「では、私はそろそろ」
ムツが静かに言う。
「もう? 今度はどちらへ?」
コウが少し名残惜しそうに聞いた。
「次は岩倉領の丹古へ向かう予定でして」
「丹古!? え! あの南蛮の町!?」
ぱっと顔が明るくなる。
「ええ。珍しい品も多く」
ムツは少しだけ考え、続けた。
「甘味もありますよ。
甘く煮た果実を使った、だんごなど」
「へえ……そんなのあるんだ」
コウが目を輝かせた。
何気ない会話だったが、戌助の指先が小さく動いた。
(……だんご)
胸の奥に、かすかな引っかかり。
(……知っている)
理由は分からない。
けれど、確かに。
その瞬間、コウが振り返った。
「ねえ、戌助、昔からだんご好きでしょ」
にやりと笑う。
「……」
「行こうよ!
ちょうどいいじゃん、護衛にもなるし!」
戌助の背中をどんと押し、その勢いのまま、ムツを見る。
「ね?」
ムツは一瞬だけ考え、
「……護衛が増えるのは、助かります」
と応じた。
「決まり!」
コウは満足そうに笑う。
その横で、戌助は何も言わない。
ただ、歩き出すふたりの背を、少し遅れて追った。
並んでいるはずなのに。
手を伸ばせば届く距離のはずなのに。
その背中は、やけに遠く感じられた。




