一幕 ワタシヲ、オモイダシテ
水の音が、やけに近かった。
浅瀬を撫でる流れが、さらさらと耳へ入ってくる。
――見覚えがある。
理由は分からない。だが、この川に来たのは初めてではない気がした。
そう思った瞬間、意識が浮かび上がった。
「……っ」
重い瞼を開けると、揺れる火の色が視界に映る。
焚き火だった。
ぱち、と薪が弾ける。
その向こうに、ひとりの男がいた。
黒い髪をうなじで細く束ね、整った所作で火を見ている。
背筋は伸び、纏う空気は真っすぐだった。
(……)
名が、喉元まで上がる。
だがその前に、焚き火越しに見えるその小袖へ、ふと目が留まる。
雪を抱いた松の文様。
見慣れていたはずなのに、どこか遠かった。
「――あ、目が覚めましたか」
男――ムツが、こちらを振り返る。
その目は柔らかい。
「川沿いで倒れておられたので。冷えますから、火を」
「……ああ」
ムツは立ち上がり、距離を保ったまま一歩だけ近づく。
「どこかお怪我は」
気遣っている。だが、その手はこちらへ伸びてこない。
「ない」
「そうですか。それは何よりです」
丁寧に頷く。
その仕草は、あまりにもよそよそしかった。
胸の奥が、かすかにざわつく。
こんな人だっただろうか。
沈黙を埋めるように、ムツが口を開く。
「差し支えなければ、お名前を伺っても」
戌助は、顔を上げた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
その問いを、ムツが口にするはずがなかった。
「……戌助」
「戌助殿、ですね。私は、六ツ門雪松と申します」
あくまで丁寧に、他人行儀で。
その名乗り方は、知らない人のものだった。
「……ムツ」
ぽつりと、こぼれる。
一瞬、空気が止まった。
ムツは目を見開き、すぐに眉を下げた。
「……そのような呼び名で呼ばれたのは、初めてです。
親しい者でも、そうは呼びませんので」
柔らかい声のまま。
だが、はっきりと距離を引く響きだった。
「……ごめん」
戌助は視線を落とした。
風が、川面を揺らす。
その時、不意にムツの視線が戌助の顔へ留まった。
「……失礼、髪が乱れて……」
一歩、近づく。
「……」
戌助は何も言わない。
ムツは少しだけ迷ったあと、荷を探り、小さな櫛を取り出した。
「行商の折に手に入れたものですが。よろしければ」
戌助は、差し出されたそれを、ためらいもなく受け取った。
指先に触れた瞬間――ぞくり、とした。
「……これは」
見覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
「どうかされましたか」
「……いや」
否定しながらも、手は止まらない。
ゆっくりと髪へ櫛を通す。
引っかかりもなく、滑らかに通る感触。
知っている。
何度も使った。
(……どうして)
無意識に、胸元へ手が伸びた。
そこにあるはずだった。
ずっと、肌身離さず持っていた。
なのに。
「……ない」
空だった。
息が浅くなる。
ならば、これはなんだ。
どうしてここにある。
なぜ、ムツが持っている――
「戌助殿?」
呼ばれて、はっとする。
その瞬間、ぽたり、と雫が落ちた。
「……」
自分でも、気づかなかった。
表情は変わらない。ただ、涙だけが頬を伝っていた。
ムツは、明らかに戸惑う。
「……その……何か、思い出されましたか」
「……分からない」
沈黙が落ちた。
火のはぜる音だけが、やけに大きい。
やがて、ムツは小さく息をつき、苦笑した。
「……困りましたね」
「何か事情がおありのようですが……」
少しだけしゃがみ、目線を合わせる。
「家は、どちらに」
「……」
答えられない。
分かっているはずなのに、輪郭がぼやけている。
やがて、竹林が浮かんだ。
ああ、小郡村だ。
「……小郡」
「忍衆の……?では、よろしければ、お送りします」
その言葉に、ほんの少しだけ救われる。
「……ありがとう」
「いえ。放ってはおけませんから」
そう言って、わずかに口元を緩める。
その笑顔が、どうしようもなく“あの人”にも似ていて。
胸の奥が、また軋んだ。




