↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/90

二幕 亡命

 伊織(いおり)の胸の奥が、静かに波打っていた。


 ここを出れば、もう戻れない。


 夜の天守。

その縁に立ち、伊織は目を伏せた。


 城下の灯りが揺れている。


 穏やかなはずのその光が、どこか火のように赤く滲んで見えた。

燃え広がる前触れのように。


 ゆっくりと、空を仰ぐ。


 夜空には、天の川が淡く流れていた。


「……行きます」


 誰に向けたものでもない。

だがそれは、別れであり――始まりでもあった。


 一歩後ろ。

わずかにずらした位置に、戌助(いぬすけ)が立っている。


 何も言わない。

だが、その気配だけで十分だった。


 息を潜めた気配が、いくつも重なる。


 自分は、ひとりではない。


 その事実が、静かに背を押した。




 天守の屋根は、月光を受けて鈍く光っている。


 その上を、影が滑った。

音もなく、ただ気配だけが連なっていく。


 足を踏み出すたび、全員の衣がかすかに鳴る。

風が抜け、袖が揺れた。


 静かな羽音とともに、ムツの肩に黒い影が降り立った。

「戻ったか」

 鴉が短く鳴き、ムツは小さく頷く。

「今、いけるよ」


「上等」

 稲吉(いなよし)が、口の端を上げた。

「急ごう」

 戌助の声で、全員が動く。


 屋根の縁に、鍵縄が落ちた。

闇へ溶けるように、一人、また一人と降りていく。


 その中で――

「……っ」

 端間(はたま)の動きが鈍った。


 足場を探る指先が、ぎこちない。


 その横を、影がひとつ抜ける。

「半べそかいてるやつ、だーれだ」

 軽い声とともに、稲吉がするりと先へ降りていく。


「うるせぇ……! 船酔いするやつに言われたくねえよ!」

 小声で噛みつく。


「は。言うじゃんか」

 下から、笑う気配。

「足元、よく見とけ。落ちたら死ぬぞ」

 からかうように言う。だが、目は逸らさない。


 端間は、唇を噛み――踏み出した。


 そのすぐ後ろで、ぐらり、と福童(ふくどう)の影が揺れた。

「は……っ」


 崩れかけた腕を、ムツが軽く支える。

「大丈夫ですか」


「……ありがとうございます」


 福童が息を整えるころには、ムツはもう前を見ていた。


 最後に残ったのは、伊織。

その左右に、影が寄る。


 コウと、戌助だ。


「ゆっくりでいい」

「手、ここ持って」

 コウが、そっと縄へ触れさせる。


 伊織は、小さく頷いた。


 縄を握る。


 深く息を吸い――一歩、踏み出す。


 夜へ。




 やがて、地上が近づく。

屋根伝いに抜ければ、その先は近い。


 だが前方に、黒い塊が浮かび上がる。


 鐘楼(しょうろう)だ。


 高く組まれた木組み。

その中央に吊られた大鐘が、闇の中へ沈んでいた。


 風が抜けるたび、低く鈍い音がかすかに鳴った。


「……鳴らされたらまずいですね」

 ムツが、小さく呟く。


 この鐘は、合図だ。

一度でも響けば――城中に異変が伝わる。


 戌助の手が上がった。


 散開。


「――誰だ」

 影が、動く。


 木組みの陰から、数人の兵が現れた。

そして――その視線が、福童に止まる。


「……福童様?」


 一瞬、ためらいがあった。

だが、次の瞬間には消えた。


「――裏切り者だ!」


 声が裂け、空気が変わった。

躊躇なく刃が抜かれ、踏み込まれる。


(早すぎる)

 稲吉が、舌打ちを飲み込む。


 間違いなく、読まれている。


 一瞬の交錯、その中で。


「ここは、私が」

 福童が前に出た。


「無茶です!」

 ムツが返す。


「こんなところで終わらせる気ですか」

 福童が鐘へ視線を向ける。


 兵の動きも、同じだった。

狙いは――鐘。


「……っ」

 福童が踏み出す。

最短で間合いを詰め、刃が交わった。


 火花が散る。

そのまま身体を滑り込ませ――鐘と兵の間へ割って入る。


 ぐっ、と堪えた。


「行きなさい!」


 珍しく、声を張る。


 その一言で、決まった。


「……行こう」


 戌助の影が動く。

鐘楼の縁を抜け、次の闇へ。


 一行の影が消える。




 その時。


「……はぁ」

 場違いな溜息が、空気を割った。


「やっぱり、一人じゃ無理よ」


 福童が、目を見開く。


「……おコウさん」


 振り返ると、朱鷺(とき)色の着物が風にふわりと揺れていた。


 屋根の影から、何でもないように現れる。

気配を殺したまま、当たり前の顔で。


「先に行ってください……私はここで……」

「だめ」


 ぴしゃりと返す。


「一人で全部背負って、勝手に終わる顔してる。

ほんと、男ってそういうの好きよね」


 福童は、息を止め――目を逸らす。

「……裏切り者ですよ、私は」


 コウは呆れたように、肩を回しながら隣へ並ぶ。

「知ってる。……でもね。悪い人じゃない」


「……」


「女の勘」

 少しだけ笑って、軽く言い切る。

あまりにも、あっさりとしていた。


 福童は、言葉を失った。


 それから――ふ、と力が抜ける。

「……そうですか」


 コウが、刀に手をかけた。


 細い腕。だが――抜いた刃は、大太刀。

重いはずのそれが、まるで重さを持たないかのように持ち上がる。


 構えが低く落ちる。

軸は、微塵もぶれない。


 空気が変わった。


 兵のひとりが、思わず息を呑んだ。

(……女?)


 違う。


 “そういうものではない”と、本能が告げる。


 コウは、笑いながら一歩踏み込んだ。

「じゃあ――さっさと片づけましょ」

 



 遠くで、刀がぶつかる音が響いていた。


 その音を背に、戌助たちは駆けていた。

石壁の影を縫うように、通路を進んだ。


 やがて――壁の低い位置に、黒く口を開けた穴が見える。


「ここだ」

 稲吉が、身をかがめた。


 水抜きか、通気用か。人の通る道ではない。

だからこそ、見張りも薄い。


 ひとりがやっと通れる幅だった。


 戌助が先に入り、伊織を導く。

続いて稲吉。ムツと端間が、最後尾についた。


 中は、息が詰まるほど狭かった。

背を丸め、膝を引きずるように這っていく。


 冷たい石が、衣を擦った。


 しばらくして、戌助の動きが止まった。


 全員、静止する。


 前方の格子の向こうに、灯りがついていた。


 影が、動いている。


「……こっちも見張りがいるな」

 稲吉が、ほとんど息だけで言う。


 穴の出口は、小さな裏路地へ繋がっていた。

だが、その路地は――兵で埋まっていた。


 数人どころではない。

巡回まで混じっている。


 ここを抜けるには、音もなく複数を倒す必要がある。

不可能ではない。だが――時間が足りない。


 背後から、また音がした。


 遠い。

だが、確実に近づいている。


 挟まれる。


 稲吉が、舌打ちした。

「……詰みかけてるな」


 ふと、

「武器庫」

 ムツが小さく言った。


 全員の視線が向く。


 ムツは、地図の記憶を辿るように言った。

「後ろの道、右に曲がったとこ。

確か兵の詰所に近い。火薬もあるよね?」


 問われた端間が返す。

「あるよ。でも、なんで?」


 一拍。


「――そこ、騒がせれば」

 前の見張りも、後ろの追手も、引き剥がせる。


 戌助が、目を細めた。

「陽動……」


 ムツは頷いた。

「派手にやれば、戦力がそっちへ向く。皆はその間に抜けてください」


「は?……お前が残るつもりか?」

 稲吉が眉を上げた。


「うん」

 返事に、躊躇いはない。

ただ――ほんの一瞬だけ、視線が前へ流れた。


 戌助の背へ。


 その癖を、稲吉は知っている。


「お前、本当は行きたいんだろ。

……先、行けよ。俺がやる」


 ムツは、静かに首を横へ振った。


「稲吉。

頼りにしてる」


 真っすぐすぎる言葉だった。


「……ん……?は?」

 稲吉は口をぽかんと開け、四つ這いのまま振り返る。

伊織も戌助も、思わず目を瞬いた。


「俺と抜けるより、稲吉といた方が確実でしょ」


 理屈だった。

だからこそ、強い。


 稲吉が、息を吐いた。

「……任しとけ」


「お、俺も……!」

 端間が、絞り出すように声を上げた。


 伊織の視線が、引き止めるように揺れる。

しかし、戌助はゆっくりと頷いた。


 決まりだった。




 ムツと端間は、来た通路を引き返していた。


 やがて、ひらけた一角へ出る。


 積み上げられた木箱。縄で縛られた荷。

火薬の匂いが、かすかに鼻を刺した。


「……ここだよ」

 小さく、端間が言う。


 二人は荷の影に滑り込んだ。


 足音が近づく。

見張りが二人。


 ムツが、静かに背の弓を取る。


 指先で弦を引く。

きり、と張り詰めた音が鳴った。


 端間は、思わず息を呑む。

 

 次の瞬間。


 ひゅ、と空気を裂き――一人目。


 喉元を外し、肩口へ。

男の体がびくりと跳ね、声も上げずに崩れる。


 間髪入れず、二射目。


 こちらも同じ。

急所を外し、確実に落とす。


「……眠るだけ」

 何でもないように言う。

その横顔は、やけに静かで。


(……すげぇ)

 端間は思わず見入った。


「行ける?」

ムツが視線だけで促した。


「あ、ああ」

端間は頷き、荷の間へ滑り込む。


 火薬の匂い。

縄の束。

重さ、質感――


「……これだ」

 目当てを見つける。


「頼むね」

 ムツはすでに外へ目を配り、弓を構え直していた。

 

 端間は火打石を取り出した。


 一度、息を整える。


 打つ。


 火花。


 小さい。


 もう一度。


 火花が、縄の端へ移る。

じわり、と赤く染まった。


「……よし」


 だが、弱い。燃え広がらない。


(早く……!)

 焦りが滲んだ、その時。


「おい」


 背後からの声に、肩が跳ねる。

振り返る間もなく、襟を掴まれた。


「端間じゃないか、お前また悪戯を――」

 言いかけた、その瞬間。

縄の火が、走った。


「――やべ」

 端間が身を引いた、次の瞬間。


 轟音。


 闇が、弾けた。


 閃光と熱が一気に吹き抜け、兵が吹き飛んだ。


 端間も、ころころと地面に転がった。


「――っ、ははっ……!」

 顔を上げる。


 煙。

炎。

叫び声。


 何が起きたか分からないまま、兵たちが右往左往していた。


 その向こうで、ムツが振り返った。


 一瞬、目が合う。


 ムツは、にや、と笑い吹き出した。

「やばっ!!」


 端間も、笑った。

腹の底から込み上げる。

「はははっ……! やっべぇ!」


 ムツが槍を引き抜く。

折りたたまれていた柄が、音もなく伸びた。

「行くぞ」


 端間も立ち上がる。

刀を握る手は、まだ震えている。


それでも――顔は、笑っていた。

「……おう!」


「突っ込めーーー!」

「うおおおおっ!!」


 二人同時に、踏み出す。


 そのまま――煙の中へ、かき消えるように突っ込んでいった。




 稲吉は軽く息を吐き、腕で血の飛沫を拭った。


「……終わりか」

 着物の裾についた汚れを、ぱん、と払い、肩の力を抜いた。


 足元には、倒れた巡回兵が数人。


 戌助は周囲を一瞥し、すぐに伊織へ視線を戻した。

「大丈夫ですか」

「……ええ」


 返事の直後、どん、と腹へ響く音が遠くで弾けた。


 遅れてもう一つ。

鈍く、重い爆ぜる音。


 三人とも、顔を上げた。


「……やってるな」

 稲吉が呟く。


 かすかに――笑い声のようなものが、混じった気がした。


「無事のようですね」

 伊織が、胸をなでおろす。

「ああ……」

 短く返しながらも、稲吉の視線は動いたままだった。


「――いや、変だ。

散ってねぇ――寄ってる」


 耳を澄ませば、遠くで足音が重なっていた。

一方向ではない。あちこちから、じわじわと集まってくる。


 空気が、冷える。


 戌助の目が細まった。

「……どこまで読まれてる……」


 答えは返らない。

だが――足音は、確実に近づいていた。


「行きましょう」

 戌助が言う。


 三人は進む。


 その足取りを待っていたかのように、周囲の気配が閉じた。




 石の階段を下りるにつれ、空気は湿り気を帯び、

ひやりと肌へまとわりつく。


 鉄の匂い。


 地下牢だった。


 格子の向こうに、人影が並んでいる。


 痩せた者。力なく座り込む者。

虚ろな目だけが、格子の向こうを見ていた。


「……伊織様、か……?」


 ふと、一人が声を上げた。

他の者も続き、ざわめきが広がる。


 ――城下で見た人々とは、まるで違う視線だった。


 怯えでも、憎しみでもない。

顔を上げる者たちの目には、ただ、まっすぐな光があった。


「……姫様!!」


 喉の奥で絞るような声。

信じきれないようで、それでも縋るような響き。


 その目は、濁っていない。

ここにいる理由が、否応なく伝わってくる。


 伊織の足が止まる。


 格子の前へ歩み寄った。


 胸の奥に、じんわりと何かが広がっていく。


「……」

 伊織は一瞬だけ目を伏せた。


 囚人の手を取り、顔を上げる。


「必ず、戻ります」


 はっきりと、揺るがない声だった。

沈んでいた空気が、わずかに揺れた。


「っ……どうか、ご無事で……!!」


 声が、震えながらも力を取り戻していく。

伊織の手を握る白い指にも、わずかな熱が戻っていた。


 そこにあったのは、確かに――希望だった。


 伊織の瞳に、温かな灯がともった。

頭を垂れた花が、息を吹き返すようだった。


 少し離れた場所で、戌助はその様子を見ていた。


(……よかった)

 張り詰めていたものの奥に、まだ折れていないものが残っている。


 胸の奥が、静かにほどけた。


 伊織が背を向ける。


 もう、迷いはなかった。




 三人は地下牢を抜け、石の通路を進み――やがて外へ出た。


 夜気が、肌に触れる。


 ――違和感。


 静かすぎた。

風の音だけが、やけに大きく聞こえる。

人の気配が、ひとつもない。


 戌助の足が止まった。

「……待って」


 伊織の腕を引く。

その動きが、いつもより速い。


 稲吉も同時に視線を走らせた。


 一度では足りない。

もう一度、周囲を見る。


「……おかしい」

 吐いた息が、浅い。


 次の瞬間。

ぱん、と乾いた音が夜を裂いた。


 地面が弾け、石片が跳ねる。


「――っ!」

 伊織の体が揺れた。


 続けざまに、二発、三発。

火花が散り、白い煙が夜へ広がった。


 そして――見えた。


 高所、壁際、闇の中に、ずらりと並ぶ人影。


 一斉に灯る、火縄の赤。


「……おい」

 稲吉の声が低く落ち、指先が動いた。

無意識に、腰の刀を握り直している。


「多すぎだろ」

 額に、首筋に、冷たい汗がにじむ。


 数が、異常だった。

包囲は、すでに完成している。


 戌助は前へ出た。

反射のように、伊織を背へ庇う。


 その手が――強く、伊織の手を掴んだ。

ぎゅ、と。指先に、力が入りすぎる。


 すぐに、ほんの少しだけ緩めた。

だが――離さない。


 伊織は息を呑む。

その温度を確かめるように、そっと握り返した。


 戌助の呼吸がひとつ深くなり、整えるように視線を前へ戻す。

稲吉が、力みを逃がすように肩を回した。だが、その目だけは笑っていない。


「初弾抜けたら、その後は走れるだけ走れ」

 稲吉は二人を庇うように、前へ出る。


 火縄の先が、じり、と赤く燃える。


 引き金が、揃った。


 逃げ場はない。


 ――来る。


 その時。


 夜が、裂けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。