二幕 亡命
伊織の胸の奥が、静かに波打っていた。
ここを出れば、もう戻れない。
夜の天守。
その縁に立ち、伊織は目を伏せた。
城下の灯りが揺れている。
穏やかなはずのその光が、どこか火のように赤く滲んで見えた。
燃え広がる前触れのように。
ゆっくりと、空を仰ぐ。
夜空には、天の川が淡く流れていた。
「……行きます」
誰に向けたものでもない。
だがそれは、別れであり――始まりでもあった。
一歩後ろ。
わずかにずらした位置に、戌助が立っている。
何も言わない。
だが、その気配だけで十分だった。
息を潜めた気配が、いくつも重なる。
自分は、ひとりではない。
その事実が、静かに背を押した。
天守の屋根は、月光を受けて鈍く光っている。
その上を、影が滑った。
音もなく、ただ気配だけが連なっていく。
足を踏み出すたび、全員の衣がかすかに鳴る。
風が抜け、袖が揺れた。
静かな羽音とともに、ムツの肩に黒い影が降り立った。
「戻ったか」
鴉が短く鳴き、ムツは小さく頷く。
「今、いけるよ」
「上等」
稲吉が、口の端を上げた。
「急ごう」
戌助の声で、全員が動く。
屋根の縁に、鍵縄が落ちた。
闇へ溶けるように、一人、また一人と降りていく。
その中で――
「……っ」
端間の動きが鈍った。
足場を探る指先が、ぎこちない。
その横を、影がひとつ抜ける。
「半べそかいてるやつ、だーれだ」
軽い声とともに、稲吉がするりと先へ降りていく。
「うるせぇ……! 船酔いするやつに言われたくねえよ!」
小声で噛みつく。
「は。言うじゃんか」
下から、笑う気配。
「足元、よく見とけ。落ちたら死ぬぞ」
からかうように言う。だが、目は逸らさない。
端間は、唇を噛み――踏み出した。
そのすぐ後ろで、ぐらり、と福童の影が揺れた。
「は……っ」
崩れかけた腕を、ムツが軽く支える。
「大丈夫ですか」
「……ありがとうございます」
福童が息を整えるころには、ムツはもう前を見ていた。
最後に残ったのは、伊織。
その左右に、影が寄る。
コウと、戌助だ。
「ゆっくりでいい」
「手、ここ持って」
コウが、そっと縄へ触れさせる。
伊織は、小さく頷いた。
縄を握る。
深く息を吸い――一歩、踏み出す。
夜へ。
やがて、地上が近づく。
屋根伝いに抜ければ、その先は近い。
だが前方に、黒い塊が浮かび上がる。
鐘楼だ。
高く組まれた木組み。
その中央に吊られた大鐘が、闇の中へ沈んでいた。
風が抜けるたび、低く鈍い音がかすかに鳴った。
「……鳴らされたらまずいですね」
ムツが、小さく呟く。
この鐘は、合図だ。
一度でも響けば――城中に異変が伝わる。
戌助の手が上がった。
散開。
「――誰だ」
影が、動く。
木組みの陰から、数人の兵が現れた。
そして――その視線が、福童に止まる。
「……福童様?」
一瞬、ためらいがあった。
だが、次の瞬間には消えた。
「――裏切り者だ!」
声が裂け、空気が変わった。
躊躇なく刃が抜かれ、踏み込まれる。
(早すぎる)
稲吉が、舌打ちを飲み込む。
間違いなく、読まれている。
一瞬の交錯、その中で。
「ここは、私が」
福童が前に出た。
「無茶です!」
ムツが返す。
「こんなところで終わらせる気ですか」
福童が鐘へ視線を向ける。
兵の動きも、同じだった。
狙いは――鐘。
「……っ」
福童が踏み出す。
最短で間合いを詰め、刃が交わった。
火花が散る。
そのまま身体を滑り込ませ――鐘と兵の間へ割って入る。
ぐっ、と堪えた。
「行きなさい!」
珍しく、声を張る。
その一言で、決まった。
「……行こう」
戌助の影が動く。
鐘楼の縁を抜け、次の闇へ。
一行の影が消える。
その時。
「……はぁ」
場違いな溜息が、空気を割った。
「やっぱり、一人じゃ無理よ」
福童が、目を見開く。
「……おコウさん」
振り返ると、朱鷺色の着物が風にふわりと揺れていた。
屋根の影から、何でもないように現れる。
気配を殺したまま、当たり前の顔で。
「先に行ってください……私はここで……」
「だめ」
ぴしゃりと返す。
「一人で全部背負って、勝手に終わる顔してる。
ほんと、男ってそういうの好きよね」
福童は、息を止め――目を逸らす。
「……裏切り者ですよ、私は」
コウは呆れたように、肩を回しながら隣へ並ぶ。
「知ってる。……でもね。悪い人じゃない」
「……」
「女の勘」
少しだけ笑って、軽く言い切る。
あまりにも、あっさりとしていた。
福童は、言葉を失った。
それから――ふ、と力が抜ける。
「……そうですか」
コウが、刀に手をかけた。
細い腕。だが――抜いた刃は、大太刀。
重いはずのそれが、まるで重さを持たないかのように持ち上がる。
構えが低く落ちる。
軸は、微塵もぶれない。
空気が変わった。
兵のひとりが、思わず息を呑んだ。
(……女?)
違う。
“そういうものではない”と、本能が告げる。
コウは、笑いながら一歩踏み込んだ。
「じゃあ――さっさと片づけましょ」
遠くで、刀がぶつかる音が響いていた。
その音を背に、戌助たちは駆けていた。
石壁の影を縫うように、通路を進んだ。
やがて――壁の低い位置に、黒く口を開けた穴が見える。
「ここだ」
稲吉が、身をかがめた。
水抜きか、通気用か。人の通る道ではない。
だからこそ、見張りも薄い。
ひとりがやっと通れる幅だった。
戌助が先に入り、伊織を導く。
続いて稲吉。ムツと端間が、最後尾についた。
中は、息が詰まるほど狭かった。
背を丸め、膝を引きずるように這っていく。
冷たい石が、衣を擦った。
しばらくして、戌助の動きが止まった。
全員、静止する。
前方の格子の向こうに、灯りがついていた。
影が、動いている。
「……こっちも見張りがいるな」
稲吉が、ほとんど息だけで言う。
穴の出口は、小さな裏路地へ繋がっていた。
だが、その路地は――兵で埋まっていた。
数人どころではない。
巡回まで混じっている。
ここを抜けるには、音もなく複数を倒す必要がある。
不可能ではない。だが――時間が足りない。
背後から、また音がした。
遠い。
だが、確実に近づいている。
挟まれる。
稲吉が、舌打ちした。
「……詰みかけてるな」
ふと、
「武器庫」
ムツが小さく言った。
全員の視線が向く。
ムツは、地図の記憶を辿るように言った。
「後ろの道、右に曲がったとこ。
確か兵の詰所に近い。火薬もあるよね?」
問われた端間が返す。
「あるよ。でも、なんで?」
一拍。
「――そこ、騒がせれば」
前の見張りも、後ろの追手も、引き剥がせる。
戌助が、目を細めた。
「陽動……」
ムツは頷いた。
「派手にやれば、戦力がそっちへ向く。皆はその間に抜けてください」
「は?……お前が残るつもりか?」
稲吉が眉を上げた。
「うん」
返事に、躊躇いはない。
ただ――ほんの一瞬だけ、視線が前へ流れた。
戌助の背へ。
その癖を、稲吉は知っている。
「お前、本当は行きたいんだろ。
……先、行けよ。俺がやる」
ムツは、静かに首を横へ振った。
「稲吉。
頼りにしてる」
真っすぐすぎる言葉だった。
「……ん……?は?」
稲吉は口をぽかんと開け、四つ這いのまま振り返る。
伊織も戌助も、思わず目を瞬いた。
「俺と抜けるより、稲吉といた方が確実でしょ」
理屈だった。
だからこそ、強い。
稲吉が、息を吐いた。
「……任しとけ」
「お、俺も……!」
端間が、絞り出すように声を上げた。
伊織の視線が、引き止めるように揺れる。
しかし、戌助はゆっくりと頷いた。
決まりだった。
ムツと端間は、来た通路を引き返していた。
やがて、ひらけた一角へ出る。
積み上げられた木箱。縄で縛られた荷。
火薬の匂いが、かすかに鼻を刺した。
「……ここだよ」
小さく、端間が言う。
二人は荷の影に滑り込んだ。
足音が近づく。
見張りが二人。
ムツが、静かに背の弓を取る。
指先で弦を引く。
きり、と張り詰めた音が鳴った。
端間は、思わず息を呑む。
次の瞬間。
ひゅ、と空気を裂き――一人目。
喉元を外し、肩口へ。
男の体がびくりと跳ね、声も上げずに崩れる。
間髪入れず、二射目。
こちらも同じ。
急所を外し、確実に落とす。
「……眠るだけ」
何でもないように言う。
その横顔は、やけに静かで。
(……すげぇ)
端間は思わず見入った。
「行ける?」
ムツが視線だけで促した。
「あ、ああ」
端間は頷き、荷の間へ滑り込む。
火薬の匂い。
縄の束。
重さ、質感――
「……これだ」
目当てを見つける。
「頼むね」
ムツはすでに外へ目を配り、弓を構え直していた。
端間は火打石を取り出した。
一度、息を整える。
打つ。
火花。
小さい。
もう一度。
火花が、縄の端へ移る。
じわり、と赤く染まった。
「……よし」
だが、弱い。燃え広がらない。
(早く……!)
焦りが滲んだ、その時。
「おい」
背後からの声に、肩が跳ねる。
振り返る間もなく、襟を掴まれた。
「端間じゃないか、お前また悪戯を――」
言いかけた、その瞬間。
縄の火が、走った。
「――やべ」
端間が身を引いた、次の瞬間。
轟音。
闇が、弾けた。
閃光と熱が一気に吹き抜け、兵が吹き飛んだ。
端間も、ころころと地面に転がった。
「――っ、ははっ……!」
顔を上げる。
煙。
炎。
叫び声。
何が起きたか分からないまま、兵たちが右往左往していた。
その向こうで、ムツが振り返った。
一瞬、目が合う。
ムツは、にや、と笑い吹き出した。
「やばっ!!」
端間も、笑った。
腹の底から込み上げる。
「はははっ……! やっべぇ!」
ムツが槍を引き抜く。
折りたたまれていた柄が、音もなく伸びた。
「行くぞ」
端間も立ち上がる。
刀を握る手は、まだ震えている。
それでも――顔は、笑っていた。
「……おう!」
「突っ込めーーー!」
「うおおおおっ!!」
二人同時に、踏み出す。
そのまま――煙の中へ、かき消えるように突っ込んでいった。
稲吉は軽く息を吐き、腕で血の飛沫を拭った。
「……終わりか」
着物の裾についた汚れを、ぱん、と払い、肩の力を抜いた。
足元には、倒れた巡回兵が数人。
戌助は周囲を一瞥し、すぐに伊織へ視線を戻した。
「大丈夫ですか」
「……ええ」
返事の直後、どん、と腹へ響く音が遠くで弾けた。
遅れてもう一つ。
鈍く、重い爆ぜる音。
三人とも、顔を上げた。
「……やってるな」
稲吉が呟く。
かすかに――笑い声のようなものが、混じった気がした。
「無事のようですね」
伊織が、胸をなでおろす。
「ああ……」
短く返しながらも、稲吉の視線は動いたままだった。
「――いや、変だ。
散ってねぇ――寄ってる」
耳を澄ませば、遠くで足音が重なっていた。
一方向ではない。あちこちから、じわじわと集まってくる。
空気が、冷える。
戌助の目が細まった。
「……どこまで読まれてる……」
答えは返らない。
だが――足音は、確実に近づいていた。
「行きましょう」
戌助が言う。
三人は進む。
その足取りを待っていたかのように、周囲の気配が閉じた。
石の階段を下りるにつれ、空気は湿り気を帯び、
ひやりと肌へまとわりつく。
鉄の匂い。
地下牢だった。
格子の向こうに、人影が並んでいる。
痩せた者。力なく座り込む者。
虚ろな目だけが、格子の向こうを見ていた。
「……伊織様、か……?」
ふと、一人が声を上げた。
他の者も続き、ざわめきが広がる。
――城下で見た人々とは、まるで違う視線だった。
怯えでも、憎しみでもない。
顔を上げる者たちの目には、ただ、まっすぐな光があった。
「……姫様!!」
喉の奥で絞るような声。
信じきれないようで、それでも縋るような響き。
その目は、濁っていない。
ここにいる理由が、否応なく伝わってくる。
伊織の足が止まる。
格子の前へ歩み寄った。
胸の奥に、じんわりと何かが広がっていく。
「……」
伊織は一瞬だけ目を伏せた。
囚人の手を取り、顔を上げる。
「必ず、戻ります」
はっきりと、揺るがない声だった。
沈んでいた空気が、わずかに揺れた。
「っ……どうか、ご無事で……!!」
声が、震えながらも力を取り戻していく。
伊織の手を握る白い指にも、わずかな熱が戻っていた。
そこにあったのは、確かに――希望だった。
伊織の瞳に、温かな灯がともった。
頭を垂れた花が、息を吹き返すようだった。
少し離れた場所で、戌助はその様子を見ていた。
(……よかった)
張り詰めていたものの奥に、まだ折れていないものが残っている。
胸の奥が、静かにほどけた。
伊織が背を向ける。
もう、迷いはなかった。
三人は地下牢を抜け、石の通路を進み――やがて外へ出た。
夜気が、肌に触れる。
――違和感。
静かすぎた。
風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
人の気配が、ひとつもない。
戌助の足が止まった。
「……待って」
伊織の腕を引く。
その動きが、いつもより速い。
稲吉も同時に視線を走らせた。
一度では足りない。
もう一度、周囲を見る。
「……おかしい」
吐いた息が、浅い。
次の瞬間。
ぱん、と乾いた音が夜を裂いた。
地面が弾け、石片が跳ねる。
「――っ!」
伊織の体が揺れた。
続けざまに、二発、三発。
火花が散り、白い煙が夜へ広がった。
そして――見えた。
高所、壁際、闇の中に、ずらりと並ぶ人影。
一斉に灯る、火縄の赤。
「……おい」
稲吉の声が低く落ち、指先が動いた。
無意識に、腰の刀を握り直している。
「多すぎだろ」
額に、首筋に、冷たい汗がにじむ。
数が、異常だった。
包囲は、すでに完成している。
戌助は前へ出た。
反射のように、伊織を背へ庇う。
その手が――強く、伊織の手を掴んだ。
ぎゅ、と。指先に、力が入りすぎる。
すぐに、ほんの少しだけ緩めた。
だが――離さない。
伊織は息を呑む。
その温度を確かめるように、そっと握り返した。
戌助の呼吸がひとつ深くなり、整えるように視線を前へ戻す。
稲吉が、力みを逃がすように肩を回した。だが、その目だけは笑っていない。
「初弾抜けたら、その後は走れるだけ走れ」
稲吉は二人を庇うように、前へ出る。
火縄の先が、じり、と赤く燃える。
引き金が、揃った。
逃げ場はない。
――来る。
その時。
夜が、裂けた。




