一幕 離すな
夜明け前の山道。
霧がなお地を這う中、三つの影が静かに進んでいた。
足音は、ほとんどない。
ただ、枝を踏むかすかな気配だけが規則正しく続いている。
「ねえ!」
山に響くような声に、三人の足がぴたりと止まる。
「……来たな」
稲吉が、面倒くさそうにため息をついた。
次の瞬間、藪をかき分ける音とともに、ひとつの影が飛び出してくる。
「なんで置いてくのよ!」
息を切らして現れたのは、コウだった。
額にかかった前髪の隙間から、つんと上がった眉が覗いている。
コウは腰に手を当てたまま続けた。
「作戦会議、呼ばれてないんだけど?」
「必要ないから」
間髪入れず、稲吉が言い捨てる。
「はぁ!? なにそれ!」
コウの唇が、不機嫌そうに尖った。
「今回のはお前には無理だ。戻れ」
「いやよ」
即答だった。
空気が、わずかに止まる。
ムツがこらえきれず、小さく肩を震わせた。
「……っ」
「笑ってるでしょ今!」
コウが食ってかかるが、ムツの口元は緩んだままだった。
「いや、その……ごめん…っ」
「どうせ“足手まといになるから”とか言うんでしょ!」
稲吉は答えない。
「ほらね!」
コウは腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「でも残念。私、そういうの聞き飽きてるから」
そして、一歩踏み出し、じろりと稲吉を睨む。
「それに――私の弁当ないと、すぐお腹減ってへばる癖に!」
ムツがとうとう吹き出す。
「ふふっ……!」
稲吉はうつむいたまま拳を握りしめた。
「……おい」
「笑うな」
声だけは冷静だった。
ムツはまだ肩を震わせている。
「……弁当」
戌助が不意に呟いた。
そして、ほんの少しだけ考え――
「それは、困るかも」
「でしょ?」
コウが即座に食いつく。
「うん、ご飯は大事」
戌助は真顔で頷いた。
「ほーら!」
コウは勝ち誇ったように胸を張る。
稲吉はこめかみを押さえた。
「……お前らな」
「何よ」
「岩倉だぞ」
「分かってるわよ」
「だったら来んな」
「だから行くの」
コウは一歩も引かなかった。
稲吉はぐるりと全員を見回す。
――四面楚歌。
「……あー、もう!」
稲吉は前髪を乱暴にかきあげた。
「そんな目で見るな!……勝手にしろ」
「上等よ。師範の孫をなめんじゃないわよ」
コウはふんと鼻を鳴らし、先に歩き出す。
結局、四人はそのまま進むことになった。
山道は次第に深くなる。
木々の密度が増し、細い光だけが落ちていた。
その静けさの中で、コウの声が少し前から続いていた。
「だからさぁ。
なんであんたが決めるのよ。戌助ならともかく」
「誰が決めても同じだ」
稲吉は前を見たまま、ぶっきらぼうに返す。
「同じじゃないでしょ」
「同じやろうが」
思わず、国の言葉が漏れた。
「ほんっと可愛くないわね」
コウが、ふっと小さく笑う。
その気配は、すぐ後ろにあった。
稲吉は顔も向けずに言い返す。
「可愛くないのはお前の――」
そこで、言葉が止まった。
返事がない。
一歩。
また一歩。
「……おい?」
振り返る。
誰もいない。
そこにあるはずの気配だけが、きれいに消えていた。
「――は?」
空気が、ひやりと冷える。
ムツが遅れて足を止めた。
「どうした――」
言いかけ、後ろを見る。
「……コウは?」
その一言で、現実が形を持った。
稲吉の表情が変わる。
さきほどまでの苛立ちは、一瞬で消えていた。
「おい」
低い声。
「コウ!!」
返事はない。
風だけが、通り過ぎる。
その時だった。
枝に引っかかった布が目に入る。
見覚えのある色だった。
「――っ」
稲吉の呼吸が止まり、一瞬で血の気が引いた。
「やられた」
戌助の声は静かだった。
すでに周囲を見ている。
足跡。草の倒れ方。複数の気配。
ムツが地面に膝をつき、指先で跡をなぞる。
「人数は二……いや、三。 野党かも…」
「ちっ……!」
稲吉が地を蹴った。
その一歩は、ひどく荒い。
(見落とした――)
一瞬だけ、思考がよぎる。
気配はあったはずだ。
あの程度の連中を、取り逃がすはずがない。
「……くそっ」
低く吐き捨てる。
「待て」
「遅ぇぞ!」
戌助の声が飛んだが、振り返りもせず稲吉は走り出した。
戌助は何も言わなかった。
だが、その目はすでに状況を捉えている。
「行こう」
三つの影が並んで地を蹴る。
風だけが、その後を追った。




