一幕 名指し
――呪いたい運命だった。
あの人は、そう言った。
私も、同じだった。
だから、その手を取った。
それが――
呪いの始まりだった。
春日の国、その北方。
人の世から切り離された深い山間に、ひとつの隠れ里があった。
小郡村――忍の技を継ぐ者たちが、影として生きる地である。
「若、火急の任務です!」
夏にしては、妙に涼やかな夜。ひとりの忍が部屋に駆け込んだ。
戌助は顔を上げ、赤い髪を手早く結い上げると、足早に廊下へ出た。
小郡忍衆の長、化野家の広間。
そこにはすでに、ムツが控えていた。
空け放たれた襖から流れた夜気に、烏のような黒髪が揺れている。
戌助に気づくと、幼い頃から変わらない丸い目を瞬いた。
居住まいを正し、ふっと緊張がほぐれたようにほほ笑む。
「若。」
戌助の表情も、わずかに和らいだ。
「うん。待たせた。」
その時、廊下の奥がにわかに騒がしくなった。
「コウ! 布、そこ。縛るな、まだ血止まってねえ」
「もー! 人使いが荒いんだってば!」
「……よし、あとは任せる。診療所に運べ、誰か手伝え」
姿は見えない。だが切迫した声に、ムツは思わず腰を上げた。
やがて庭越しに、担架で運ばれていく男が見えた。
戌助は、それを見送りながら、わずかに息を吐いた。
「また、怪我人」
ムツが静かに口を開く。先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
「戦が終わって七年――でも、内乱はちっとも治まりませんね。
……それどころか、前よりひどくなっている気がします」
戌助は答えなかった。
(……心の戦、か)
胸の奥に、言いようのないざわめきが広がっていった。
その静けさを切るように、広間にもう一人。
「わり」
遅れて現れた稲吉は、たすき掛けのままだった。
頬には、拭った血の跡がかすかに残っている。
ムツは、稲吉の顔を覗き込む。
「大丈夫だった?」
「ああ。……多分もうだめだ」
戌助は膝の上でぎゅっと拳を握った。
稲吉は一度だけその手に目をやると、わずかに目を伏せ、それきり何も言わなかった。
しばしの沈黙が落ちる。
「――揃ったな」
低い声とともに、里の頭――化野平次郎が姿を現した。
上座についた平次郎の背筋は伸びているが、その顔にはうっすらと疲労の色が滲んでいた。
片目には古い傷が走り、視線はどこか定まらない。
「父上……お体は」
戌助が問う。
「ああ、案ずるな。このような話、寝たまま聞かせるわけにもいくまい」
その声には、弱りを見せぬ意志があった。
一拍ののち。
「――まずは、これに目を通せ」
差し出された文を、戌助が受け取る。
「……岩倉からの、依頼?」
その言葉に、稲吉の眉が寄る。
「……敵国が何の用だよ」
平次郎の声が低く落ちた。
「伊織様の護衛だ」
その名に、ムツがはっと顔を上げた。
「覚えておるな」
「七年前。我が主、春日の姫――伊織様が岩倉へ嫁ぎ、長く続いた戦に、ひとまずの終わりがもたらされた」
「だが近ごろ、岩倉の将軍家に不幸が相次いでいる。
城中で不審な死が続き、城主も、お方様も表舞台を退かれた。」
障子の外で、ひぐらしが鳴いた。
「そして――伊織様とともに国を支えていた若君も……
先日、病で亡くなられた」
空気が張り詰める。
戌助の瞳が、わずかに揺れた。
「……伊織様は、ご無事なのですか」
平次郎は頷いた。
「ああ。だが城下は荒れ、“鬼姫の呪い”などという噂が広まっている」
「敵国の姫を迎えたゆえの災い――と」
ムツは目を見開いた。
戌助は、唇を引き結ぶ。
その表情には、かすかな悔しさが滲んでいた。
「このままでは、大規模な内乱に発展しかねませんね」
ムツが低く言う。
「うむ。それを憂えた岩倉の家臣より、護衛の依頼が来た」
平次郎は、そこで一度言葉を切った。
部屋が静まり返る。
そして、戌助をまっすぐに見据えた。
「――名指しで、お前に任せたいとな」
庭先で、風鈴がひとつ鳴った。
稲吉が口の端を上げた。
「護衛を一人だけ、か。ずいぶん妙な話だな」
平次郎の声が鋭くなる。
「ゆえに、だ」
「城内であっても、決して気を抜くな。何が潜んでいるか分からぬ」
「はい」
戌助は短く応じた。
「稲吉、ムツ。お前たちは、噂の出所を探れ」
「はっ」
「出立は夜明けだ」
平次郎は目を閉じ、息を吐く。
「――任せたぞ」
広間を出るころには、すでに夜は深まっていた。
虫の声が、静かに響いている。
その中で、戌助は遠い山の向こうを見ていた。
ムツはその横顔に目をやった。
戌助の顔には、ほとんど感情が浮かばない。
ただ、水面のように澄みきった静けさだけがある。
だが、その気配は柔らかく、清らかで――この世の濁りに染まりきらぬものがあった。
男装に身を包んだその姿は、見慣れている者でさえ、時折わずか十六の少女であることを忘れさせる。
稲吉がふと足を止めた。
「……どうした」
戌助が振り返ると、稲吉は少しだけ考えるように目を細めた。
「いや……ひとつ、気になることがあってさ」
「お前、昔、伊織様と文を交わしてただろ」
戌助は一瞬だけ目を伏せた。
「……うん。でも、“あの時”を最後に、返事は途絶えた」
「――そうか」
そして、ぽつりと続ける。
「……勘だけどな。今回の件、“あの夜起きたこと”と繋がってる気がする」
ムツの表情が曇った。
「……それが本当なら」
「ああ。厄介なことになる」
稲吉は苦く笑う。
ふと、虫の声が途切れた。
気づけば、里はしんと静まり返っている。
風もなく、竹の葉ひとつ揺れてはいなかった。
まるで――
この先に待つ何かへ、夜そのものが息を潜めているようだった。




