第8話「歯痛は口実、本音は視察」
事の発端は、奥歯の違和感だった。
冷たいものを飲むとき、右奥がキーンと痛む。虫歯だった。間違いなく虫歯だった。
普通なら、近所の歯医者にでも行けばいい話だが。
その時の私は、普通の選択肢をあえて選ばなかった。
——おみくんの職場。知らないな、行ったことないな。
その思いつきが、頭に浮かんだ瞬間もう止まらなかった。虫歯の痛みそっちのけでスマホを手に猛烈な勢いで調べ始めていた。
おみくんの職場については、これまで詳しく聞いたことがなかった。歯科医師であること以外、クリニック名も、場所も、何一つ知らなかった。付き合っているのにこれはさすがに不自然な気がする。今更ながらそう思った。そう、そう思ってしまったのである。
手がかりは少なかった。でも、無職で暇な時間だけは無限にある女の執念を、甘く見てはいけない。
まず、以前ちらっと話していた「最寄り駅」の情報。次に、「歯科医師 高橋」で検索をかけてヒットした、いくつかのクリニックのホームページ。スタッフ紹介ページを片っ端からチェックしていく。血走った目で写真の輪郭、耳の形、首筋の角度まで見比べた。他人から見たら完全に犯罪者のそれだった。
途中、似ても似つかない歯科医師の顔写真にまで「もしかして整形?」と本気で疑いをかけたあたりで、自分の正気を一瞬だけ疑った。さすがにすぐにその疑いを握りつぶして作業を続けた。
1時間ほど格闘した末、ついに見つけた。
スタッフ紹介欄に載っていた顔写真は間違いなくおみくんだった。ナルシストな角度の自撮りとは違う、証明写真らしい真面目な顔。それでも、間違えようがなかった。画面に向かって、思わず「見つけた……」と声が漏れた。その声はストーカーのそれそのものだった。誰も聞いていない部屋で、独り言をつぶやく女。怪しさは100点だ。
「スマイル歯科クリニック」「担当:高橋裕臣」。
名前を探偵ばりの興奮とともにフルネームでメモした。まるで指名手配犯を追い詰めたような達成感だった。虫歯の痛みなんて、もうどうでもよくなっていた。ついでに、クリニックの外観写真、口コミの評価、休診日のカレンダーまで、頼まれてもいないのに全部スクリーンショットに収めていた。完全に、証拠保全のつもりだった。何の証拠かは自分でもすでにわかっていない。
その足で私は予約サイトを開いた。
初診枠。担当医師の指名欄。そこに迷わず「高橋」の名前をタップした。
予約完了画面を見ながら、私はにちゃあと笑った。鏡があったら自分でもドン引きするくらい歪んだ笑顔だったと思う。
これは、あくまで治療だ。虫歯の治療だ。決して、職場に突撃する目的ではない。断じて。
予約当日、緊張しながらクリニックのドアを開けた。
受付で名前を告げると、待合室に通される。清潔感のある内装、整然と並んだ椅子。想像していたよりずっと、真っ当な医院だった。失礼な事を言っているのは分かっている。
しばらく待っていると、名前を呼ばれた。
「橘さん、どうぞ」
その声に心臓が跳ねた。おみくんの声だった。仕事モードなのか、いつもよりほんの少し声のトーンが引き締まっている気がした。
診察台に案内される。仕事モードのおみくんと、目が合った瞬間、なぜか変に照れくさくなった。プライベートで見慣れているはずの顔なのに、職場という異空間で見ると、まるで別人みたいだった。
「今日は、どうされましたか」
完全に、患者対応の口調だった。「のんちゃん」でも「橘さん」でもなく、あくまで「患者さん」として接してくる、その徹底したプロ意識に思わず変な汗が出た。この時の自分は気持ち悪い顔をしていただろう。
「あ、えっと、奥歯が、冷たいものでしみて……」
しどろもどろになりながら、症状を説明する。おみくんは、いつも通り淡々とした様子で口の中を覗き込んだ。
「ああ、虫歯ですね。右下の奥歯。」
診断はあっという間だった。プロの仕事は速い。
「今日、削って詰めちゃいましょうか」
「え、今日中に!?」
「小さいので、すぐ終わります」
あれよあれよという間に、治療の準備が進んでいく。私が職場を突撃した達成感に浸っている暇もなく、話はさくさくと進行していった。
治療自体は、期待していたよりもあっという間だった。麻酔をして、削って、詰めて。おみくんの手つきは、驚くほど丁寧で、迷いがなかった。プライベートの淡々とした喋り方からは想像もつかないくらい、真剣な横顔だった。
——なんか、かっこいい。
診察台に横たわりながら、口を開けたまま、そんなことを思っていた自分に我ながら呆れた。ストーカーで通報されても文句はいえまい。虫歯を削られている最中に惚れ直す女、控えめに言って重症だった。
「終わりました。麻酔切れるまで、食事は控えてください」
治療が終わり、体を起こす。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
その一言のあと、少しだけ間があった。
「……ちなみに、予約入った瞬間、気づいてたよ」
「え」
「『橘乃々香』で、初診で、担当医指名。この名前と条件が揃う患者さん、そういないので」
予約した日の夜からずっと、バレていないと思っていたのは私一人だけだったらしい。バカさ加減はいつも通りだった。虫歯の痛みより、羞恥心の方が今はるかに大きく主張していた。
「じゃあ、私が来るって最初から分かってたってことですよね」
「はい。受付に予約リスト回ってきた時点で、確信してました」
「……何も言わなかったの、性格悪くないすか?」
「わざわざ言う必要もないかと思って。普通に、来てくれるのが嬉しかったので」
完全に手のひらの上で転がされていた。探偵気分で職場を突き止めたつもりが、最初から全部見抜かれていた。恥ずかしさで死にそうな反面、悔しさより先になんだか胸のあたりがくすぐったくなった。
「まあ、来てくれて嬉しかったので、いいよ」
その一言に、麻酔の効いた口元とは別の場所が、変にむずがゆくなった。口元がだらしないのはきっと麻酔のせいだ。
「橘さん、お会計、〇〇円です」
会計の窓口で、私は財布を開いて、ぎくりとした。
治療費、思っていたより少し高い。無職の私の財布には、正直ちょっと厳しい金額だった。
ここに来る前、実家の母に今月厳しくて歯医者に行くお金がないんだと少しおびえながら訪ねたら母は何事もなかったかのように、はいこれと5000円を差し出してくれた。本当に優しかった。そして震える手で5000円を差し出す。診察を受けている時より心臓がバクバクした。
受付のスタッフの声を聞きながら、私は内心冷や汗をかいていた。虫歯の治療費くらい、普通は自分で払えるはずの金額なのに、今の私にとっては、地味に清水の舞台から飛び降りるレベルの出費だった。
しかも、その出所が実の親の財布だという事実。恋人の職場に突撃するために親の脛をかじる二十九歳。控えめに言って、末期だった。
会計を終えて外に出ながら私は密かに誓った。次からは、ちゃんと自分の稼いだお金で通院しようと。無職の身で、それがどれだけ難しい誓いかは、また別の話だ。
帰り道、頬の内側の感覚がまだ半分麻痺したまま、私は一人で気持ち悪い笑みを浮かべていた。虫歯の治療という名目で、まんまと職場視察に成功した達成感と、思いがけず見られた「仕事中のおみくん」の破壊力。
スマホを取り出し、さっき撮っておいたクリニックの外観写真を、また性懲りもなく見返す。休診日のカレンダーも、もう一度確認する。次にいつ「通えるか」、頭の中で本気で算段を立て始めていた。
これは、虫歯になるしかない。また虫歯になったら、絶対に同じ手を使おう。いや、虫歯じゃなくても定期検診という名目でもいい。歯石取りでも、なんでもいい。理由なんて、後からいくらでも作れる。歯磨きキャンセルはこのまま続けたほうがいいかも知れない。というとんでもない事を考えて流石にやめておこうと思った。
不純な動機で歯医者に通う女が、ここに一人、誕生した瞬間だった。そしてその女は、自分がどれだけ引かれる可能性のある行動を取ったか、この時点でも微塵も自覚がなかった




