第7話「あの、どちらさまですか」
その日は、二人で少し遠出をして、隣町の水族館に行くことになっていた。
待ち合わせに現れたおみくんの財布を見て、私は密かに衝撃を受けている。
歯医者、しかも会員制リゾートに軽々と連れて行けるくらいの経済力があるはずの男が使っていたのはどこの店にでも売っていそうな、聞いたこともないブランドの二つ折り財布だった。角も少しくたびれている。高級ブランドのロゴなんて、どこにもない。
「財布、それなの?」
思わず聞いてしまった。
「これ? 使えるから」
「使えるからって……もっと、こう、革の高いやつとか持ってそうなのに」
「別に、財布に興味ない。使えるならなんでもいい。」
あっさりとした返事。ナルシストのくせに、こういうところは驚くほど無頓着だった。自撮りの角度には全力をかけるくせに財布のブランドには一切こだわらない。この人の美意識の基準が、私にはいまだによく分からなかった。どういう感覚してるんだこいつは。
車も思えばそうだった。会員制リゾートに連れて行かれた日に乗っていたのも、普段の待ち合わせに乗ってくるのも、変わらず同じ高級車だった。持ち物には無頓着なくせに、車だけは妙にいいものに乗っている。チグハグすぎる。
「財布はどうでもいいのに、車はこだわるの?」
「車は好きなので」
唯一の例外らしい。ナルシストな所作、無頓着な財布、そして謎にこだわりの強い車趣味。この人を構成する要素は、いちいちバランスが悪い。その意味を知るのはまだ後のことだ。
「見栄とかないの」
「張る意味が分からない。誰かに評価されるために生きてるわけでもないし」
その一言に、なんだか妙に納得した。彼の全てが矛盾しているようで、おみくんの中では筋が通っているらしかった。そういうところもなんだか好きだった。
水族館は、平日ということもあって思ったより空いていた。
クラゲの水槽の前で、二人並んでぼんやり眺めていた時だった。
「……裕臣くん?」
背後から、聞き覚えのない女性の声がした。
振り返ると、綺麗にまとまった雰囲気の女性が期待に満ちた顔でこちらを見ていた。誰だ、この女は、と警戒音が鳴り響きかけた時だった。
「久しぶり! 覚えてる? 大学の——」
女性が名乗るよりも先に、懐かしそうに言葉を続けようとしていた。
でも、おみくんは、ぴくりとも表情を動かさなかった。
「……すみません、どちら様でしたか」
あまりにも真顔で、あまりにも自然に放たれた一言だった。演技でもとぼけているわけでもなさそうだった。本気で、分からないという顔をしていた。それは多分彼女にとっては効果抜群の致命傷になった。
女性の表情がみるみるうちに固まっていった。
「え……嘘でしょ。私だよ、〇〇。大学の時、少し付き合ってた……」
「そう、でしたか」
その返事もまるで、初対面の相手に丁寧に相槌を打つような、他人行儀なトーンだった。悪気は多分どこにもない。ただ純粋に記憶がすっぽり抜け落ちている風に見える。
「本当に、覚えてない……?」
女性の声が、少しずつ震え始めた。
「はい」
おみくんは、変に取り繕うこともなく、正直に頷いた。この期に及んでその律儀さが、逆に事態を悪化させていた。頭の警報はなぜか静かになり止んでいくのを私は感じた。
女性の目に、じわりと涙が浮かんだ。
「短い間だったけど、付き合ってたのに……最底。声かけるんじゃなかった」
絞り出すような声でそう言うと、女性は顔を覆って、足早にその場を去っていった。振り返ることもなく、走るように水族館の出口の方へ消えていった。
残された私たちは、しばらく無言だった。
私はこの状況がいまいち理解できていない。
私は去っていく後ろ姿と、隣で普通に立っているおみくんを、交互に見比べていた。
「……あの人、泣いてたけど」
「そうだね。」
「そうだね、じゃなくて! 本当に、覚えてないの!?」
「知らない。名前も、顔も、初めて見た気がする」
その返答に、私は言葉を失った。冗談でも、強がりでもなさそうだった。本気で、記憶にないと言っている。恐怖が頭を支配した。
「……ちょっと待って。今の話だと、付き合ってたんだよね? それを、丸ごと忘れるって、え?本気?」
「あるかは分からないけど、実際、記憶にない」
背筋がすっと冷えた。おみくんのスーパードライマンの仇の由来について今まさに、目の前で、初めて実物を見せられた気分だ。
「……それが『スーパードライマン』のあだ名の由来?」
「多分そうかな」
「多分って何! 今、生きた証拠見せられたんだけど!」
頭の中で、点と点が繋がっていく感覚があった。カフェで聞いた「学生の時のあだ名、スーパードライマンでした」「誰が何言っても動じないので」という、あの時のあっさりとした説明。あれは、単なる「動じない性格」なんてレベルの話じゃなかったんだ。交際した相手の存在ごと綺麗さっぱり記憶から消し去れる。ある種の異能だったのだ。
「ちなみにその人とは、どのくらい付き合ってた?」
「……それも、記憶が曖昧で」
「曖昧ってなんだ!」
「多分、短かったとは思うけど正確には覚えてない」
その一言に、戦慄した。名前も、顔も、交際期間さえも、跡形もなく記憶から消え去っている。過去の交際歴について本人がまるで他人事のように、しかもあやふやにしか報告できないという事実、その両方に。
「……ねえ、私のことも、いつか忘れるの?」
震える声で聞いた。今度は冗談ではなく本気の質問だった。怖い。
おみくんは、少しだけ黙った。それから、いつになくはっきりとした声で言った。
「のんちゃんは、忘れないんじゃないかな」
「なんでそう言い切れるの。さっきの人だって忘れてるのに」
「今までの人とは違うから」
その一言に、クラゲの水槽の青白い光の中で、私はしばらく、言葉を失った。
嫉妬や動揺よりも先に正直、恐怖の方が勝っていた。それでも、はっきりと言い切られたその一言には、恐怖を上回るくらいの重みが確かにあった。
この人の「忘れる」という機能の裏側にきっと私が知らない事情や、理由があるんだろう。それでも今はこの一言だけを、震えながらも大事に抱えておこうと思った。たぶん次の日には恐怖で頭がおかしくなっているだろうけど。
その日以来、私はやっぱりしばらく眠れない夜を過ごすことになった。
目を閉じると、あの水族館での光景が繰り返し蘇ってきた。名前も、顔も、付き合っていた期間さえも、跡形もなく消し去られてしまった、あの女性の泣き顔。
——私もいつか、ああなるんじゃないか。
一度そう思うと止まらなかった。おみくんの隣で笑っている今の自分と、記憶から綺麗さっぱり消え去った未来の自分が、頭の中で交互に浮かんでは消えた。
布団に入っても目が冴える。天井を見つめながら、何度も何度も同じ不安を反芻する。うつの症状とは別に、この一週間だけは寝つきの悪さがひどく増した。
「……最近、寝れてなくない?」
電話越しに、おみくんがそう聞いてきたのは、七日目の夜だった。
「なんで分かるの」
「声のトーンで、なんとなく」
律儀に気づいてくれたことに少しだけ救われた。それでも、素直に「あなたが元カノを忘れたことが怖くて眠れない」とはなかなか言い出せる人間はなかなかいないだろう。
「大丈夫。ちょっと、色々考えすぎてるだけ。たぶん。」
「色々って、またいつもの?」
「……いつもの、というか、今回は、ちょっと違う種類のやつ」
言葉を濁しながらも、結局私はぽつぽつと本音を漏らし始めていた。忘れられることへの恐怖。自分もいつか、あの女性みたいになるんじゃないかという不安。一週間分溜め込んでいた気持ちが堰を切ったように溢れ出した。緊急警報が頭ではなっていた。
黙って聞いていたおみくんは、話が一段落したところで、静かにこう言った。
「一週間も、一人で悩んでたんだ」
「……うん」
「それは、俺のせいだと思う。ごめん。ちゃんと説明しなかったから」
珍しく、自分の落ち度を認める発言だった。
「説明って」
「忘れるのは、多分、どうでもいい相手だからだと思う。正直モテたし、いろんな人寄ってきてたし。ちゃんと向き合ってなかった。でも——」
少しの間があった。
「ちゃんと向き合ってる相手のことは、忘れない。今のところ、そう思ってるのは、のんちゃんだけ」
その言葉に、一週間分の不眠が少しだけ報われた気がした。完全ではない。その夜は久しぶりに深く眠ることができた。




