第6話「鬼電、37コール」
平和な日々、というものが私にはやっぱり向いていないらしい。
おみくんの診療所の診療時間は事前に聞いていた。平日は19時半まで。だから私は毎日、19時15分くらいを目安に「今日もお疲れさま」の連絡を送るのを習慣にしていた。もはやラジオ体操並みの規則正しさだった。
その日も、19時15分にメッセージを送った。既読がつかなかった。
最初の10分はまだ平気だった。私は聖人のように寛大だった。
19時45分。30分経った。既読がつかない。
冷静に考えれば、アトラクションに乗るよりも短い時間だった。それなのに、頭の中で警報が鳴り始めた。聖人モードは跡形もなく消え去った。
最悪の想像が次々と頭に浮かんでは消えていった。事故、病気、それとも他に女が——一度浮かんだら緊急対策本部を脳内会議室から強制退場という選択肢はなくなった。
気づけば、電話をかけていた。出ない。もう一回。出ない。もはやリダイヤルボタンと指が一体化していた。
気づいたら着信履歴は37回。前回の質問攻めLINEも37通だったことを思い出し、占い師なら「相手を震え上がらせる数字です」とか言いそうだとどうでもいい分析をする余裕まで出てくる。
38回目をかけようとした、その時。着信が来た。
「もしもし!?なんで電話でないの?なんで連絡ないの!?」
「今、診療終わったところ」
呼吸すら整っている。片やこっちは、三十分で心拍数がマラソン選手並みになっていたというのに。
「診療終了間際に、飛び込みの患者が来て。しょうがないからそのまま診た」
あまりにも真っ当な理由に、こっちの怒りの持って行き場がなくなって混乱する。
「電話、すごい数来てたけど」
「うん、37回」
「多いね」
その一言に、思わず力が抜けた。他人事か。いや他人事ではない。まさに当事者である。この男はその自覚があるのだろうか。
「多いね、じゃなくて! 何とも思わないの!? 普通ちょっとビビらない!?ていうか引かない!?」
「治療中だったから、気づいたのは終わってからだし。患者さんを優先しただけだから」
きっと顔色一つ変えてないのだろう。健康診断の結果を読み上げるようなトーンで。攻撃力満点の弾を、綿棒みたいな盾で軽々と受け止められた気分だった。
「……心配して、勝手に不安になって損した気分」
「損はしてないと思う。心配してくれたのはいいことだよ」
「ただ、飛び込みの患者さんが来ることも、たまにあるから。もし今日みたいに既読つかなくても、三十分だけ待って」
歯医者だからか諭し方が寛容で優しすぎた。
「三十分は待つけど、三十一分目からはまた鬼電すると思う。たぶん。」
「それは、もうわかってる。しょうがない」
「しょうがないって、諦めるの早すぎない?」
「早いというか、事実だから」
しょうがない、で片付けられるあたりこの人の器の広さを、また一つ思い知らされた気がした。世界中の男が束になっても、多分このメンタルには勝てない。
電話を切ったあと、37回の着信履歴をなんとなく見返す。冷静に数字だけ見ると、完全に事案だった。自分でも引いた。
自分でもよく分からないまま、その夜は、少し反省しながら「三十分待ってあげてほしい」というお願いの優しさをじんわり噛みしめながら、眠りについた。




