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第5話「退会ボタンの重さ」

付き合って、一週間が経ったある夜。


私はいまだに、マッチングアプリのアイコンをスマホのホーム画面から消せずにいた。

付き合った以上、退会するのが筋なのは分かっている。分かっているのに、なぜかアプリのアイコンだけがずっとホーム画面の隅で存在感を放ち続けていた。そしてあることを思い出した。


そしておみくんのLINEを開いてメッセージを送る。


「そういえば、アプリまだ退会してない」


軽い調子で打ったつもりだった。ちょっとした確認、それだけのつもりだった。

既読はすぐについたけれど、返信はまだ来ない。既読スルーといっていいのかわからない数十秒を持て余して、私は自分のアカウントを先に退会してしまおうとこっそりアプリを開いていた。

設定画面を探して、退会手続きのボタンを探している途中、どうしても気になっておみくんのアカウントを調べた。


——え。


鏡越しの、あの見覚えのあるナルシスト全開の自撮り写真。まさかと思って二度見した。プロフィールも、自己紹介文も、何一つ変わっていない。「オフライン」という表示だけが光っているのが幸いだった。


自分の分を退会しようとしただけなのに、まさか彼のアカウントがまだ削除されていないとは思ってもみなかった。完全に不可抗力。交通事故のようなものだった。


まさに今この瞬間、生きているアカウント。

脳内で「シャキーン」という効果音が鳴った。緊急事態発生を告げる、あの音。

そのタイミングでようやく彼からの返信が届いた。


「まだ」


数分の返信の誤差で彼は、この後激詰めされる未来を予想していただろうか。


「今、アカウント見た」

「見た?」


「見た。調べた。写真もそのまま、自己紹介もそのまま。何なら今この瞬間も、誰かが『いいね』送れる状態になってるってことだよね」


「うん、多分」


「うん多分って何!?これ、たまたま探して見つけて、普通に考えたら分からなかったやつだよね!? 一週間放置されてたってことだよね!?」


「たまたま」という言葉を、自分でも三回くらい心の中で反芻した。本当にたまたまだった。断じて、検索して探したわけではなかった。いや、検索はしている。何を言っているのか自分でも分からない。


「かもしれない」


「かもしれないってなに?確認したの? 見た? 誰かとやりとりしてないよね?」


「してない。見てもいない」


「見てないなら分からないのに!見てないのに『してない』って言い切れるのおかしくない!?」


自分でも声に出したらとんでもない大声だっただろうと分かるくらいの勢いで指がキーボードの上を暴れ回った。親指の腱鞘炎レベルの高速タイピングをして完全に頭に血が上っていく。


冷静だった一週間分の理性が、音を立てて崩れていくのが分かった。せっかく積み上げてきた「疑わない努力」の貯金が、たった一文字の「まだ」で、一瞬にして口座残高0になった。もう残高0にはなりたくない。


「アプリ開いて。今すぐ退会スクショ送って」

「今、家じゃないから無理」

「なんで!じゃあいつなら見せられるの!? まさか、見せられない理由でもあるの!?浮気でもしたの!?もう!?」


自分の指が血眼になってタイピングしている。自分のものじゃないみたいだった。次から次へと、疑心が言葉になって溢れ出てくる。頭では「落ち着け」と分かっているのに、心臓と指だけが、勝手に暴走特急に乗って発車していた。


「落ち着いて」


「落ち着けるわけないでしょ! 一週間だよ!? 一週間分の『いいね』とメッセージが、今もおみくんのアカウントに溜まってるかもしれないんだよ!? しかもそれ、私が知らないところで!」


打ちながら、自分の語彙がだんだん常軌を逸していくのが分かった。「証拠」「アカウント削除の履歴」「タイムスタンプ」——普段の社会不適合者の語彙力からは考えられない、謎の刑事ドラマ用語まで動員してまくし立てるように送り続けた。


スタンプ機能を使わなかったのが、せめてもの救いだった。文字だけですんで本当に良かったと思う。もし音声通話だったら家族だけではなく近隣住民から通報されていたレベルの声量だったに違いない。


「今日、家帰ったらすぐ確認する。それで、すぐ退会もする」


「家帰ったらっていつ!?何時!?」


「……仕事終わったら」


「終わったらっていつ!? 遅い! 」


自分でも、無茶を言っている自覚はあった。今家にいない人間に、今すぐアプリの中身を見せろというのは、物理的に不可能な要求だった。それでも、理性より先に、指が動いていた。無職の暇な時間をフルに悪い方向に使っていた。

しばらくの沈黙のあと、こう返ってきた。


「分かった。今から帰る」


「え」


「歩いて十五分くらいだから、帰ったらすぐスクショ取って送る」


やりすぎたと頭の中が一瞬で冷静になる。まさか、本当に今から帰ってくるとは思っていなかった。予想外の展開に、逆にこちらが動揺した。頭の中の緊急対策本部が、一瞬で解散モードに切り替わった。


「え、そこまでしなくても…」


「のんちゃんがすぐじゃなきゃダメそうなんで」


律儀すぎる。仕事終わりの帰宅ラッシュの中、彼氏が十五分ダッシュで自宅に走って向かっている。傍から見たら完全にDVで訴えられても文句は言えない。しかも走らせている原因は、私の証拠不十分な暴走的疑いという極めて不名誉な理由。


十五分後、本当に連絡が来た。


「帰った。アプリみた」


「……どうだった?」


「未読、三件。全部返信してない。今、退会した。これスクショ。」


スクリーンショットが、続けて送られてきた。三件の未読メッセージとその直後の「退会手続きが完了しました」という運営からの通知画面。証拠としてこれ以上ないくらい分かりやすいものだった。

それを突きつけられて私は、急速に我に返った。


自分がどれだけの言葉を一方的にぶつけていたかを思い出して、頭を抱えたくなった。「証拠」「浮気の疑い」なんて言葉まで持ち出して、まるで刑事の取り調べだった。しかも相手はこちらの理不尽な要求に、文句一つ言わず十五分ダッシュで帰宅までしてくれている。誠実さの証明のために全力疾走させられる彼氏、世間ではモラハラDVとして訴えられそうだった。


「……ごめん。また取り乱した。」


「知ってる」


「すみませんでした」


「大丈夫」


その淡々とした返しになんだか力が抜けた。怒りも、疑いも、今更ながらの申し訳なさに全部押し流されて、代わりにじんわりとした安心感だけが残った。あと何度これを繰り返すのだろうか。


「ありがとう。退会してくれて」


「これで、お互い、もう身軽になったね」


シンプルなその一言に、私はスマホを両手で抱えたまま、しばらく動けなかった。

私の暴走に、最後まで付き合ってくれる人。今のところ、この世に一人しかいないその存在が、今夜もまた少しだけ、私をまともな人間に近づけてくれた気がした。


ちなみに翌日、おみくんの職場の同僚から「あの夜、めちゃくちゃ焦った顔で走って帰る先生を見た」という目撃情報が、あったとかなかったとか。

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