第4話「寝れない夜と、公式カップル」
リゾートから実家に送り届けられたのは日曜の夕方だった。
玄関で「じゃあ、また連絡する」と、敬語からタメ口になったおみさんがいつも通りの温度で言って去っていった。私はまだ、状況を飲み込めずにいた。
——付き合ってる。私たち、付き合ってることになってる。
実感が全然湧かなかった。
自室に戻りベッドに倒れ込む。何も変わっていないはずの部屋なのに、なぜか居心地が悪い。自分の中身だけが昨日までとまるで違う生き物になった気がした。
——寝よう。
そう思って目を閉じたのに目は全く冴えていた。
脳内会議が勝手に開催された。議題は一つ、「本当に付き合って大丈夫なのか」について。
賛成派の自分:顔がいい。歯医者。優しい。深夜の尋問にも一切キレなかった。むしろ最後まで付き合ってくれた。
反対派の自分:優良物件すぎる。優良物件すぎる男には、絶対に裏がある。これは経験則。過去の傷から学んだ、数少ない人生訓。
賛成派:でも、証拠は何もないのに疑うのは失礼では?
反対派:証拠がないから疑ってるんだが?
脳内会議は、平行線のまま、一向に閉会しなかった。寝ることをあきらめかけた時だった。
枕元のスマホが光った。
おみさんからだった。敬語からタメ語に変わったトーク画面を見てまずそこで一瞬固まった。
「お疲れ」
それだけの一文。それだけなのに、私はその画面を食い入るように見つめていた。
「こちらこそ、色々ありがとう……あと、昨日の夜は本当にごめん」
正直に打った。今更取り繕っても仕方がない。あの深夜の尋問劇を彼はもう見てしまっているのだから。それに、タメ語で謝るのはなんだかいつもより素直になれた気がした。それでも手の震えは止まらなかった。
既読。数秒の間。
「まあ、あれがのんさんなんだと思ってる」
「あれを普通の私と思わないでいただきたい。」
「そうなの?」
この人、絶対に手加減してくれない。分かってはいたけれど、文字だけのやりとりでも容赦がないことに変な感心をした。それがいいことなのかは分からなかったが。
それでも、なぜか腹は立たなかった。
むしろその身も蓋もなさに少しだけ救われている自分がいた。取り繕われるより、ちゃんと「変」だと認めてもらえた方がよかった。
やりとりはそのあとも続いた。
「明日から俺のことどう呼ぶ? おみさん、のままでいい?」
その一文に、心臓がまた変な音を立てた。「彼氏」という単語を、頭の中で恐る恐る転がしてみる。まだ実感が湧かない、けれど確かに実在するらしいその関係性の名前を。
呼び捨てとかのほうがいいのかな……
打ってはみたものの、送信ボタンの上で指が止まった。「裕臣」「乃々香」と呼び捨てにし合う未来を想像してみたら、急に動機がしてきた。付き合って一日も経っていないのにいきなり距離を詰めすぎな気がした。
結局、その一文は消してこう打ち直した。
「のんちゃん、って呼んでほしい。私も、おみくんって呼びたい」
我ながら、微妙に及び腰な提案だった。呼び捨てにする勇気は出なかったけれど「さん」のままでいるのもなんだか他人行儀すぎる気がした。その中間地点として選んだのが「ちゃん」と「くん」だった。
「わかった。じゃあ今日はゆっくりおやすみ。寝てないでしょのんちゃん」
たった三文字、「ちゃん」がついただけなのに。
布団の中で一人で足をバタバタさせた。声にならない声が勝手に漏れた。夕方5時。一人で悶える二十九歳。ついさっきまで「証明してください」と正座で詰め寄っていた同一人物とは思えない、あまりの変わり身の早さだった。
人間、単純にできている。それも私は誰よりも単純にできているらしかった。
その夜、結局私は一睡もできなかった。眠気よりも、胸の奥のざわめきの方がずっと強かったから。もしくは不眠症だ。
朝方、カーテンの隙間から差し込む光を見ながら私はぼんやりと思った。
——この関係、普通の関係性になるのか?
普通じゃない始まり方をした二人が、これから普通の恋人みたいに過ごせるとは到底思えなかった。だけど悪い予感だけではなかった。
スマホの画面には、「おみくん」という、たった四文字の名前が表示されている。
この呼び方に慣れる頃には私は一体どうなっているんだろう。
そんなことを考えながら、ようやくうとうとと眠む気がきて気づいたら眠っていた。
翌朝、目が覚めた瞬間私は飛び起きた。
寝起きにしてはやけに冷静な頭で気づいてしまったのだ。
——あれ、全部、夢だったのでは?
会員制リゾート。星空。深夜の尋問。「じゃあ、付き合いましょう」。「のんちゃん」呼び。どれもこれもあまりにも自分に都合が良すぎる展開だった。無職でメンヘラで、2週間風呂キャンした女に、そんな都合のいい話が起きるわけがない。
冷静に考えれば考えるほど、夢オチの可能性が濃厚に思えてきた。もはや、これは病気が原因で見えてる幻覚なのではと疑った。
震える手でスマホを確認する。トーク画面には、確かに「おやすみ、のんちゃん」の文字が残っていた。
残っている。ということは、現実?
いや、でも、これが全部寝ぼけて自分で送った文章を後から都合よく解釈しているだけという可能性も——。
考え始めたら、止まらなくなった。
朝七時、私は血眼でおみくんにメッセージを送った。
「私たち、付き合ってるよね?」
ド直球すぎる連絡に、送ってから、すぐに後悔した。朝七時に届く「私たち付き合ってるよね」は、控えめに言って通報レベルの重さだった。それでも送信取り消しボタンはもう存在しなかった。
既読は三十分後についた。その間は地獄だった。
「付き合ってる」
その三文字に、心臓が跳ねた。安心したはずなのに、五分後にはまた不安になった。三文字だけって、事務的すぎないか。もっとこう、絵文字の一つでもつけてくれてもいいのでは。もうここまで来たら病気だった。
「本当に? 昨日の夜のこと、全部覚えてる?」
「覚えてる」
「じゃあ、私のフルネーム言ってみて」
我ながら、意味不明な要求だった。フルネームを言えたところでそれが何の証明になるのかは、自分でも分かっていなかった。
「橘乃々香」
律儀に答えてくれたことに少しだけ安堵した。安堵したのに出るわ出るわ新しい不安。押しつぶされそうになって何かがプチっと切れた音がした。
「本当は面倒だと思ってるんでしょ」
「思ってない」
「思ってなくてもそう言うしかないよね。だって面倒だもん」
完全に堂々巡りだった。信じたい気持ちと、疑いたい気持ちが、交互に前へ出てくる。まるで二人羽織の相方が自分の中に住んでいるみたいだった。
その日、私がおみくんに送ったメッセージの数は最終的に37通になった。はたから見たら狂気の沙汰である。
診療時間中だったはずのおみくんから、既読だけがぽつぽつとつき続けた。なんで既読だけついて返信がないんだと、部屋で暴れていたのは内緒である。返信は、昼休みらしきタイミングでまとめて来た。
「昼休みだから、まとめて返す」
そう前置きしてから、彼は律儀に、37通分の返事を一つ一つ番号を振って回答を返してきた。「①付き合ってる②覚えてる③橘乃々香です④面倒だと思ってない⑤思ってなくても事実」——という具合にまるで業務連絡のような体裁で。
その几帳面さに思わず笑みがこぼれる。ここまで丁寧に相手をしてくれる律儀さと、こんな事務的な返し方しかできない不器用さが、同居しているのがおかしかった。
最後に、こんな一文が追加されていた。
「ちなみに、そんなに不安なら毎朝確認してくれていい。俺は特に面倒じゃないから」
その一言に、目頭が熱くなった。面倒じゃない、というたった一言が今の私にはどんな愛の言葉よりも効いた。それはもう心に刺さるぐらいに。
こうして、その日から私は早起きしておみくんの出勤前に合わせてメッセージを送り続けた。「本当に付き合ってるよね確認LINE」は、しばらくの間毎朝の日課になった。おみくんは、毎朝それに律儀に番号付きで返信し続けた。
傍から見たら相当おかしなカップルだったと思う。というよりも私がメンヘラ過ぎていつフラれてもおかしくないカップル。それでも、この奇妙な儀式を繰り返すたびに、私の中の「夢オチかもしれない」という不安は、少しずつ、薄くなっていった。
浮かれた朝の裏で、私の生活には、変わらず続いているものもあった。
洗面台の引き出しには、相変わらず薬の袋が並んでいる。朝食後、頓服とは別に毎日決まった量を飲む錠剤。恋人ができたからといって、うつが魔法みたいに治るわけではなかった。当たり前のことなのに、浮かれていた分だけその当たり前を思い知らされる瞬間が地味に応える。
昨日まで「夢オチかもしれない」なんて浮かれていたくせに。恋人ができても、無職なのも、実家暮らしなのも、通院しているのも、何一つ変わっていない。変わったのは、スマホの中に「おみくん」という名前が増えたことだけだった。
それでも——と、私は思う。
その「それだけ」が、今は大きかった。
朝に飲み忘れた薬の袋を探しながらおみくんに今の状態を話しておくべきかどうか、少し迷った。カフェで散々話した過去の中に、通院の話も混ざってはいたけれど、「今も薬を飲んでいる」という現在進行形の事実はまだきちんと伝えていなかった。
迷った末、私はメッセージを打った。
「言い忘れてたんだけど、今も通院してて、朝晩薬飲んでる。急に治ったりは無理だからたまに調子悪い日とかもあると思う」
できるだけ、さらっと不快じゃないように。深刻に受け取られたくなくて、努めて軽い調子で送った。
既読がついてから返信が来るまで、いつもより少し長い時間がかかった。
「了解。調子悪い日は、無理に連絡返さなくていいから」
それだけだった。
同情も、心配しすぎるでもなく、ただ「了解」の二文字。そのフラットさが、今の私にはちょうどよかった。腫れ物扱いされる心になんだか平穏が漂ってきた気がした。
「ちなみに、飲み忘れとかしてないよね」
続けて届いたその一文に、指が止まった。
ついさっき、今日の朝の分をうっかり飲み忘れていたのに気づいて、今飲もうとしていたところだった。夢オチ疑惑の確認LINEに気を取られすぎて、薬のことなんて頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
「してない」と打とうとして、指がその一歩手前で固まった。
嘘をつくのは、簡単だった。でも簡単すぎて、逆にできなかった。今まで散々「噓だけはやめて」と彼に詰め寄ったのは、他でもない自分だ。その自分がこんな小さな噓すらつけないのはなぜだろう。
「……実は、今日の朝の分忘れてた。今から飲む」
正直に打った。打った瞬間、じわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。連絡しまくって「治ってない」と宣言した数時間後に、さっそく飲み忘れを白状する女。説得力がゼロだった。
「今、飲んで」
叱られるかと身構えたのに、返ってきたのは、拍子抜けするくらい淡々とした指示だった。
言われた通り、その場でコップに水を注ぎ、薬を飲んだ。「飲んだ」ときちんと報告までした。
「えらい」
その二文字に、なぜか泣きそうになった。子ども扱いされているはずなのに、感情のこもらない声のトーンのまま言われたその一言が逆に噓っぽくなくて私にはよかった。
たった、それだけのやりとり。
それでも、「治ってないこと」を隠さずに言えたことに、私は自分でも驚くくらいほっとしていた。




