第3話「じゃあ、付き合いましょう」
二回目のデートの待ち合わせ場所で、私は自分の目を疑うしかなかった。
路肩に停まっていたのは、車に詳しくない私でも「これは高いやつだ」と分かる艶やかな黒塗りの車だった。無職の私の全財産(五千円プラス最近母がくれたお小遣い)が、この車のエンブレム一つにも負けている。
「どうぞ、乗ってください」
助手席のドアを当たり前のように開けられる。エスコートに慣れているのか、それとも単に効率がいいだけなのか、判断がつかない。とりあえず、慣れない革張りのシートに普段からしたことのないお嬢様座りで収まった。
「今日は、ちょっと遠出します」
行き先も告げられないまま、車に乗せられること一時間半。窓の外の景色が、都心のコンビニから緑、緑からもっと濃い緑へと移り変わっていく。着いた先は山の中にひっそりと佇む、いかにも「会員制」という看板を背負った施設だった。
入り口の門からしてもう違う。ウィーンと重厚な音を立てて開く自動ゲート。庶民の私の嗅覚が「ここ、場違い、今すぐ引き返せ」と非常ベルが鳴り始めた。
受付では名前も名乗っていないのにスタッフが、「高橋様、お待ちしておりました」と完璧な角度でお辞儀をした。顔パスならぬ名前パス。私はその横で借りてきた猫よりもさらに縮こまった状態で立っていた。
部屋に案内されるまでの通路、飾られている絵画、置いてある壺、全部が「触ったら弁償」の気配を放っていた。トイレの場所を聞くのすら手汗がにじみ出た。
夕食は、コース料理だった。運ばれてくるたびにフォークが何本もあることに絶望し、隣を見てはおみさんの持っているフォークをこっそり真似た。カニのハサミみたいな形の道具が出てきたときはもはや戦意を喪失し、使うことを諦めた。
カタツムリのような珍妙な料理が出されたときは目が点になった。そして小声でおみさんに聞いた。
「これなんですか」
「エスカルゴです」
「エス……なんですか」
「カタツムリです」
やっぱりカタツムリ。生まれて初めて食べる、貝でも肉でもない何か。庶民、フォーク以前の問題として精神的な壁にぶち当たっていた。
それでも、おみさんは相変わらず淡々としていたけれど時々、こちらのグラスに水を注いでくれたり、食べにくそうにしている料理をさりげなく取り分けてくれたりした。その気遣いのタイミングが絶妙で、いちいち不慣れな自分はメンタルを削られた。それでも慣れない場所で、慣れない緊張をしている私をちゃんと見ている人だった。
食事が終わるころには緊張と今まで味わったことのないワインで頭がふわふわしていた。
夜になって部屋に案内された。
和洋折衷の、広すぎる部屋だった。窓の外には、街の灯りとは無縁の本物の星空が広がっていた。プラネタリウムかと思うくらい星が多かった。
——ここから先のことは、詳しくは書かない。
ただ一つだけ言えるのは、まだ「付き合ってもいない」二人だったということ。恋人でもなんでもない状態で、私は流されるように、一線を越えてしまった。ワインのせいにしたくてたまらなかったけれど、確実にそれだけのせいじゃなかった。
深夜三時。
隣で眠るおみさんの寝顔を見ながら、私は布団の中で静かにさっきの出来事を思い出して爆発していた。
最初は、幸せな余韻だった。三十分くらいまでも、幸せな余韻だった。
それが四十分を過ぎたあたりから頭の中で不穏なノイズが鳴り始める。
——待って。私、まだ付き合ってない。
付き合ってもいない相手と、こんな会員制の施設まで連れてこられて、身体の関係まで持ってしまった。
過去の記憶が津波みたいに押し寄せてきた。都合よく扱われて、最後には全部持っていかれた、あの懐かしくも屈辱の日々の記憶。あの元彼だって、最初は優しかった。優しくて、お金を持っていて、そのくせ、こちらの気持ちなんて何一つ考えていなかった。
——また同じことをされているのでは?
一度そう思うと、止まらなかった。頭の中の思考がものすごい速度で悪い方向にだけ暴走していく。
気づけば、隣で寝ているおみさんの肩を両手で掴んで揺らしていた。
「…起きてください」
「……っ、な、なんですか」
目を開けたおみさんの前で、私は息を切らしていた。心臓が殴られたみたいにドクドク鳴っていた。手が震えていた。声も、震えていた。血走った目で彼を見つめていた。きっとおみさんからすればホラーだっただろう。
「確認したいことがあります、今すぐ」
「今って、真夜中……」
「今じゃないと、発狂します」
自分の声とは思えないくらい、切羽詰まった声が出た。おみさんが、その異様な空気を察したのか、無言で上体を起こした。私は布団の上で正座になり、彼と向き合った。心なしか彼は諦めている気がした。両手は、無意識に彼のパジャマの裾を掴んでいた。離したら、本当に消えてしまう気もした。
「一つ目」
声が上ずる。息が、うまく吸えない。
「私のこと、遊びですか。正直に言ってください。今すぐ」
「違います」
「なんでそんな即答できるんですか、普通ちょっとくらい考えるでしょ。考えてから答えてください。私、噓は見抜けるので」
どの口が言えたのだろう。
「考える必要がないので」
「じゃあ、こう聞きます。私のこと、本当に好きですか。好きって言葉、軽々しく使ってません? 好きって言っておけば女は落ちるとか、そういうのじゃないですよね? 違いますよね? 違うって言ってください、違っても許さないけど」
言いながら掴んでいたパジャマの裾をさらに強く握った。指が白くなっていた。だんだんと力が強くなっていく。
「違います」
「本当に? 本当に本当ですか? じゃあ証明してください。証明って何すればいいんだろう。え、もう分かんないなんで。どうしたら証明できます?」
自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた。指切りに法的効力を求める深夜2時。頭のネジが何本か抜け落ちていってる自覚はあった。それでも口が止まらない。
「二つ目。今までも、こういう場所に、他の女の人、連れてきたことありますか。ありますよね。こんな慣れた感じ、絶対初めてじゃないですよね。私わかってますからね。」
「ないです」
「噓ついてないですよね。ウソついてたらこの星空のなかに飛び込んで死にます」
声が、途中から涙で崩れた。極端すぎる自分の発言に、頭のどこかで「言い過ぎだ」と冷静な声がしたけれど止められなかった。留められるわけがなかった。感情の蛇口が壊れて全開になっていた。
「噓はついてないです」
おみさんの声は、相変わらず落ち着いていた。動じた様子は少しもなかった。その平然とした態度に、私はさらにヒートアップしていくのが分かった。
「なんでそんなに冷静なんですか。私、こんなにボロボロなのに、なんでそんな淡々と答えるんですか。感情ないんですか。私に興味ないんですか。なんなんですか。」
「冷静とかじゃなくて、本当のことしか言ってないので、慌てる理由がないだけです」
まくし立てるように言いながら、彼の腕を両手で掴んで、さらに揺さぶった。
「三つ目。この施設、先輩の紹介って言いましたよね。その先輩、男ですか女ですか。女ですよね。絶対女だ。女なんだ。目逸らさないでください」
「逸らしてないですし、先輩は…」
「答えて!」
自分でも、耳を疑うくらいの大声が出た。深夜のリゾートの一室に、金切り声が響いた。それでもおみさんは、眉一つ動かさず真正面から受け止めていた。
「男性です。先輩は、男性です」
「本当に? 本当に本当ですか? あとで嘘だったって分かったら、分かってますよね。私、頭おかしいの分かってますよね」
「本当です」
「証明できるんですか」
「ちょっと難しいかもしれません」
証明できないと言われた瞬間、また不安が膨れ上がった。証明できないなら、嘘かもしれない。嘘かもしれないなら、もう全部信じられない。堂々巡りの頭のおかしい理屈が頭の中をぐるぐる回り続けていた。
「四つ目」
もう、質問の体すら成していなかった。目は血走っている。ただ、不安という名の濁流に口だけが勝手に動かされているみたいだった。
「今、私のこと、本当に好きですか」
「好きです」
「ほんとに?即答してなんか怪しい。一夜限りのためのウソですよね。なんで私はこんなにさみしいのにおみさんはそんな軽々しく言えるんですか」
「怖いのは分かりました。それでも好きなことは好きなので。軽々しくも言ってません」
言いながら自分でも支離滅裂だと分かっていた。即答されても疑い、間を置かれても疑う。何を返されても納得できる答えなんてこの場にいる人間はもちあわせていない。それでもおみさんは質問がいくつ重なっても、表情も声のトーンも、ほとんど変わらなかった。動じないというより逃げる気が最初からないみたいだった。
「五つ目、六つ目、七つ目——もうわかんない。」
質問の中身は、もはや自分でもよく分からなくなっていた。ただ、口が勝手に動き続けていた。自分でも止まれないことを知ってた。それでも彼は、一つ一つに面倒くさがる素振りも見せず律儀に相槌と答えを返し続けていた。「へえ」でも「なるほど」でもなく、今度はちゃんと私の質問の中身に沿った返事だった。
気づけば正座を崩して、彼の腕にしがみついていて土下座しているみたいになっていた。そしてそのまましがみついたまま離れなかった。
「捨てないでください。もう私何もないんです。これが嘘ならもう何も信じるものもなにもない。だから捨てないでくださいお願いします。」
29歳本気の号泣土下座だった。言っていることが、さっきまでの「疑ってる」態度と真逆になっていることに、自分でも途中で気づいた。疑っているくせに、縋っている。矛盾だらけだった。でも、その矛盾ごと止められなかった。
おみさんはしばらく黙っていた。
それから静かにこう言った。
「多分、俺が何を言っても今は無理だと思います」
終わった。その一言に心臓が凍った。ほら、やっぱり。呆れられた。もう終わりだ。頭の中で、最悪の予測が一気に膨らんだ。
「でも」
おみさんは、続けた。
「無理なら無理で、明日も、明後日も、何回でも同じこと聞いてくれればいいと思います。俺はそのたびに同じこと答えるので」
その言葉に、崩れかけていた何かが少しだけ支えを取り戻した気がした。今までの喧騒がウソみたいだった。
長い沈黙のあと、彼はあくびを一つ噛み殺してから、こう言った。
「じゃあ、付き合いましょう」
「……は?。今、それを言うんですか」
「言うタイミング、他にありました?」
あまりにも身も蓋もない返しに、唖然としてしまった。ロマンチックのかけらもない。プロポーズならぬ、寝起きの流れ作業みたいな告白。それでも確かに彼は「付き合いましょう」と言った。
「……本当に、それでいいんですか。今、大声出して、正座で問い詰めて、最後は泣き崩れた女ですよ。本気ですか?頭おかしいんですか?」
「良くないと思ってたら、言ってないです」
頭おかしいは余計ですとその一言だけで、また泣きそうになった。今度はさっきとは違う種類の涙だった。
こうして、私たちは「付き合っている」ことになった。
なった、けれど。
深夜のベッドの中で芽生えたこの疑惑——本当に遊ばれているんじゃないか、都合のいい女にされているだけなんじゃないか、という不安はその夜完全には消えることはなかった。
消えないまま、私はこの訳の分からない男との交際を始めてしまったのだった。
かなりトチ狂ってる主人公を広い目で見てやってください




