第2話「体温差のあるやりとり」
電話を切ってから、二日が経っていた。
あの日以来、連絡は途絶えていなかったけれど電話の時ほどの熱量はなく、文字だけの淡々としたやりとりに戻っていた。それはそれで、少し寂しいような、でもこれくらいの距離感の方が心臓のためには優しいような、複雑な気分だった。
返信して五分もしないうちに既読はついた。
なのに、次の返信が来るまで体感で一時間くらいか待った気がする。実際は四分もかかっていなかった。スマホの画面を開きっぱなしにしてガン見して監視した。通知が来ていないか、既読無視されていないか、なんなら通知の設定自体が壊れていないか、本気で疑って確認して自分の送りつけた返信を何度も読み返してを繰り返した。
「そうなんですね」
……そうなんですね。それだけ?
電話であれだけ話したはずなのに、文字だとまた一から距離を測り直しているみたいだった。趣味を聞かれて、「読書と映画鑑賞です」と、無難の権化みたいな一文で返したら、戻ってきたのはこの四文字だった。
このままではだめだ。相手の私への興味がなくなってしまう。
焦りに焦った私は「そうなんですね」の四文字を、その後三十分かけて解読しようとした。「そうなんですね」に隠された感情を分析する女、午後22時。句点の位置、文字数、絵文字の有無。全部に意味を見出そうとする自分が我ながら末期だと思った。
頭が変になりそうになってスマホを閉じかけたところで、続きが来た。
「読書、何が好きですか」
……あ。続きがあるタイプの人だった。
その瞬間、ベッドの上でガバッと起き上がった。1週間風呂に入っていない女が、夜に一人でガバッと起き上がる図は恐怖映像そのものだった。
テンポが独特すぎて感情の起伏が全く読めない。褒めるでもなく、けなすでもなく、ただ淡々と日常みたいな質問を重ねてくる。まるで問診票を埋めているみたいなやりとりがその日は深夜まで続いた。
何が面白いのか、自分でもよく分からなかった。今まで会ってきた男たちはみんな最初から「かわいい」「タイプです」を連発してきた。それに慣れきった体は、最初からこの温度のない会話を心地よく思っている。
媚びられていない。下心のセンサーが一切反応しない。
その一方で、もしかしてこの人、私のこと女として見てないのでは——という新手の不安を抱え始めたが、その日は眠りについた。三日ぶりに悪夢を見なかった夜だった。
それから一週間、やりとりは続いた。
ロキソニンさんは、相変わらず淡々としていた。「大丈夫?」「無理しないでね」と腫れ物扱いしてくる周りの人たちと違って、この人はただの日常会話として、淡々とキャッチボールしてくる。恐ろしく楽だった。
一週間の間に、私がスマホを開いた回数は、控えめに言って正気の沙汰の回数ではなかった。
「今度、会いませんか」
このメッセージが来たのは、やりとりが始まって八日目の夜だった
携帯を持つ手が震えた。同時に、頭の中で警報がガンガンとなり始める。
——待って。この生ゴミみたいな自分と会う?正気か?
今の自分を顧みて、心底絶望した。風呂キャンは2週間目に入っていた。部屋は異臭を放っていて家族も近づかない。それでも指は勝手に動いた。
「あの、言わなきゃいけないことがあって」
「プロフィールの写真、盛れてすぎてます。あったら落胆するかもしれません」
我ながら情けない告白だった。会う前から予防線を張るなんてプライドのかけらもない行為だった。そんなプライドはとうに捨てた自分を思い出して悲しくなった。
既読がついた。
返信が来るまで、いつもより少し長い時間がかかった。その数十秒の間、私は最悪の未来を何パターンも想定して勝手に一人で布団にくるまって泣いていた。
「わかりました」
それだけ。
わかりました、それだけ? もっとこう「大丈夫ですよ」とか「気にしないでください」とか、フォローの言葉が来るものじゃないの?
拍子抜けした私に続けてもう一通届いた。
「写真とか気にするより、会って話す方がいいと思うので」
その一文に、なぜか胸のあたりがぎゅっとつかまれた気持ちになった。
慰めでも、お世辞でもない。ただの事実の指摘。
——おかしな人に出会ってしまった。
でも、その変さに私は完全に絡め取られていた。
「いつなら空いてますか」
私が聞くとすぐに返信が来た。
「今週の土曜、休みなので」
電話で聞いていた通りの曜日だった。ちゃんと覚えていてくれたのか、それとも、たまたま今週がそのタイミングだったのか。少なくとも、平日はちゃんと働いている人らしい。それだけでなんだかポイントが加算された。無職の自分が言えた義理ではないけれど。
「土曜、大丈夫です」
メッセージを送った瞬間、猛烈な後悔に襲われた。
早い。返信が早すぎる。既読ついてから何秒経った? スマホの時計を二度見した。その言葉を待ってましたと言わんばかりの食いつきように自分でもビビった。
頭の中で、これまで培ってきた「駆け引き」の知識が、一斉に音を立てて崩れ落ちていくのが聞こえる。曰く、即レスは重い。曰く、少しくらい間を置くのが女の余裕。曰く、追われる女になれ。誰かが言った言葉は跡形もなく頭からずり落ちていく。
全部今更だった。もう送ってしまった。既読はついた。時は戻らない。
だったらせめて次のメッセージで巻き返そう。私は本気でそう考え、指を動かし始めた。
「あ、でも予定によっては動かせるので、時間はいつでも合わせます」
「場所とかも、お任せします」
「あ、でも苦手な食べ物とかあれば言ってください」
三通、追加で連投した。合計四通。
連投して我に返った。
予定なんか無職の自分にあるはずがない。何を見栄を張っているのか。そんなプライドは捨てたはずだろと誰かが頭のなかで叫んだ気がした。
これは即レスどころの話じゃない。もはや催促。もはや包囲網。相手が今どこにいて、何をしていようと、通知が四連続で鳴る恐怖を、私は今この人に与えている。
スマホを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。「今すぐ全部送信取り消したい」という気持ちと、「もう遅い」という諦めが、頭の中で殴り合っていた。
既読は、四通ともすぐについた。
そして、返ってきたのは——
「了解です」
の、五文字だけ。
私の全力の四連投に対して、五文字。この温度差。潔いを通り越して、いっそ清々しい。
安堵と脱力が同時に来て、私はベッドに突っ伏した。人間、本気で誰かを好きになりかけるとここまで見苦しくなれるらしい。自分でもドン引きだった。
土曜日まで、あと三日。
三日あれば、髪も、肌も、多少はどうにかなるはずだ。問題は、三日で「まともな人間」に戻れるかどうかだった。
土曜日の朝、私は数週間ぶりに風呂に入った。
シャンプーの泡が、洗面台にどんどん灰色になって流れていくのを見ながら、「これが今までの私だったのか」と、ゴミカスのような自分を他人事のように客観視していた。歯も丁寧に磨いた。奥歯まで。人間、久しぶりに清潔になるとこんなにすっきりするのかと、異臭のしない自分に感動した。
リビングに降りると、家族の視線が一斉にこちらを向いた。
「……は?どうしたの、その恰好」
母が、驚きと戸惑いの混じった声を出した。「ふうん」しか言わない父ですら新聞から顔を上げて目をかっぴらいてこちらを見た。姉に至っては、あからさまに疑惑の目をしていた。
「まさか、また変な男?」
図星すぎて、何も言い返せなかった。ここ半年、部屋から出るのは病院に行く時くらいだった娘が、突然きちんと風呂に入り、髪を乾かし、まともな服を着て出かけようとしている。家族からすればそれは「立ち直った」というより「また何か始まった」という警戒アラートだったらしい。
否定できないのが、地味に辛かった。
「ちょ、ちょっと、友達に会うだけだから」
嘘をついた。どもった。逃げるように家を出た。
待ち合わせのカフェに着くと、彼はすでに席に座っていた。
姿を見た瞬間、写真と変わらない本物を見てよだれがたれそうになるのを必死にこらえた。
実物をまじまじと見て写真より、少しだけ痩せているくらいだった。綺麗な黒髪のストレートヘアが揺れている。ナルシストな自撮りの中の顔がそのまま立体になって目の前にいる。詐欺じゃなかった。少なくとも、彼の方は。
窓際の二人掛けの席。西日が、テーブルの木目に長い影を作っていた。店内には、豆のいい匂いと、誰かのグラスの氷が鳴る音だけが静かに響いていた。土曜の午後にしては驚くほど空いている店だった。彼が選んだのだと思うと変なニヤケが止まらなくなりそうでやめた。
私は正直に申告した通り写真より不健康そのものをした顔を化粧で隠した。前の私にはほど遠いかもしれないと我ながら思う。それでも彼は、特に驚いた様子もなく軽く手を挙げただけだった。
「はじめまして」
拍子抜けするくらい、いつも通りのトーンだった。声は電話で聞くより低くて安定感がある耳に残る種類の低さだった。
向かいの席に座る。椅子を引く音がやけに大きく店内に響いた気がした。二人とも少しの間、無言で座っていた。
「あの、改めて」
先に沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「高橋裕臣です。おみ、って呼んでください」
思ったよりまともなフルネームだった。ロキソニンなんて名乗っておいて、本名はきちんと漢字も画数も整っている。ギャップがすごい。
「あ……橘乃々香です。じゃあ、のん、って呼んでください」
名乗り合っただけなのに、変に緊張した。「のん」も「おみ」も、まだ口の中で馴染みのない響きで何となく恥ずかしかった。
「なに頼みます?」
メニュー表をこちらに向けてくれる指が長くて綺麗なのを見てまた口元がニヤつきそうだった。そしてコーヒーを頼んだ。店員さんが物を持ってきてくれるまで、他愛もない話をして場を繋いだ。私の顔の気持ち悪さはバレていないだろうか。
おみさんは、コーヒーカップを持ち上げる仕草一つとっても、妙に様になっていた。手首の角度、視線の運び方、椅子に座る姿勢まで、すべてがどこか「絵になること」を意識しているように見えた。本人にその自覚があるのかはまだ分からなかったけれど、少なくとも所作の端々からナルシストの気配がにじみ出ていた。
「おみさんって、昔からそんな感じなんですか」
思わず聞いてしまった。「そんな感じ」というのが具体的に何を指すのか、自分でもうまく説明できないけれど彼にはちゃんと伝わったらしい。
「何がですか?」
真顔で見つめ返されて困った。ナルシストっぽいですよねなんて口が裂けても言えない。苦し紛れに出たのは精一杯の褒め言葉だった。
「…所作がきれいだったので絵になると思いまして」
「そうですか?ありがとうございます。」
切れ長の目を少し目を細めて笑ったおみさんに、胸がときめいた。そして私は気になっていたことを聞くことにした。
「おみさんって、結構ドライって言われません?」
面食らったようにこちらを見つめて数秒。おみさんは答えた。
「…学生時代のあだ名はスーパードライマンでした。あまり物事に動じるタイプではないので」
あだ名の由来を本人が真顔で解説している時点で、もうその通りすぎて笑いそうになった。誰が何を言っても動じない、冗談なのか本気なのか分からない一言でさらりと切り返す。それがこの人の基本仕様らしかった。
それから私たちはお互いの生活について、当たり障りのない話をした。休みの日は何をしているか。この辺りには詳しいか。当たり障りのない会話をしながらも、頭の片隅では「運命の人探してます」というあの一言だけのプロフィールのことが、ずっと引っかかっていた。あの一言と、目の前の淡々とした人が、まだうまく結びつかない。
話題が一段落したところで少しだけ沈黙が落ちた。
その沈黙が、なぜか気まずかった。今の私にそれを立てる忍耐能力は無い。気まずさを埋めようとして私はいつもの悪い癖を発動させた。空気を読まずに喋りすぎる癖。誰も聞いていないのに一人でベラベラと喋る癖。
「あの……変なこと聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私のこと、なんで気になったんですか。プロフィール、ほとんど情報なかったのに」
おみさんは少し考えるように視線を上に向けた。
「写真が、目に留まったので」
シンプルすぎる回答だった。でもその素っ気なさが、なぜか私の中で「もっと聞きたい」という気持ちに火をつける。
だからその勢いのまま、私は本来なら初対面で言うべきではないことまで口を滑らせ始めた。
「実は、去年、彼氏に貯金を全部持ち逃げされて」
「へえ」
相槌が短い。感情の起伏、ゼロ。続きを話していいものかは迷わなかった。止まらなかった。
「その人、ギャンブル依存症で。会社の金にまで手を出して最終的に逮捕されたんです」
「それは災難でしたね」
まるで天気の話でもしているみたいな声色だった。同情も、驚きもない。淡々とした事実の受け取り方。
「それで私、うつになって。会社も辞めて」
「なるほど」
「実家に帰って、半年くらい引きこもってて。パニック発作もたまに出るんです」
「そうですか」
相槌のバリエーションが少なすぎる。「へえ」「なるほど」「そうですか」の三種類を、律儀にローテーションしているだけみたいだった。それでも、話す手が止まらなかった。同情されるでもなく、ただ淡々と受け止められることが、今の私にはちょうどよかった。
全部を話し終えたとき、急に全身を這いずり回るような恐怖が襲ってきた。彼の顔をおそるおそる見た。
引かれた、と思った。当然だ。初デートでこれだけの重たい話を聞いてもいないのに全部聞かされたのだから。
おみさんは、少しだけ目を見開いていた。それから、静かに笑った。
「それは、なかなかハードモードでしたね」
鳩が豆鉄砲を食らうとはまさにこのことだ。
「引かないんですか」
「引くというか……よく今日、ここに来られましたね。それだけで、俺は結構すごいと思いますよ」
あまりにあっさりと肯定されて、逆に泣きそうになった。今までの人生で、誰も私の状況を「よく頑張った」の一言で片付けてくれなかった。同情でもなく、憐れみでもなく、ただのほんとうにただのフラットな評価。
おみさんは、コーヒーカップを一度、静かに置いた。何かを言おうか、少し迷っているような間があった。
空気が急に変わった。
さっきまでの感情の起伏のない淡々としたやりとりとは明らかに違う沈黙。おみさんの視線が、まっすぐこちらに向いていた。
心臓が、痛いくらい鳴っていた。
何か言われる。何か、決定的なことを。分かるのに、身構える暇もなかった。
「……のんさん」
「は、はい」
声が、勝手に上ずった。
「僕といたら」
一拍、間があった。カフェの喧騒が、急に遠くなった気がした。
「幸せになれると思いますよ」
時間が、一瞬、止まった気がした。
ナンパの決め台詞みたいな、薄っぺらい言葉のはずだった。それなのに、真顔で、まっすぐな目で言われると、まるで違う重みを持って胸に落ちてきた。心臓がうるさいくらい鳴っている。喉の奥が変に締まった。
——騙されてる。絶対、こういう言葉に弱いのが、私の悪いところだ。分かってる。分かってるのに。
カフェに入ってきた瞬間からどタイプすぎる顔でこちらを見ているこの人の言うことを、私はもう何一つ否定できなくなっていた。
しばらく、何も言えなかった。ただ、頬が熱くなっているのだけが自分でも分かった。
沈黙を誤魔化すように、私は無理やり話題を変えた。
「……あ、あの、そういえば」
声が、まだ少し震えていた。
「お仕事、何をされてるんですか」
プロフィールの空欄が、ずっと気になっていた。聞くと決めていたはずなのに、いざ聞こうとするとなぜか妙に緊張した。これで詐欺師まがいな仕事をしている人ならもう私の見る目は終わっている。
おみさんが、少し黙った。
その数秒の沈黙がやけに長く感じられた。心臓がまた変な音を立て始める。まさか、やっぱり言えない仕事なのか。それとも、無職だったらどうしよう。いや、無職なら無職で、こっちも似たようなものだから何も言えないんだけど——頭の中を、いろんな最悪の予想が駆け巡った。
おみさんは、ゆっくりとカップを置いた。
こちらをまっすぐ見た。
「歯科医師です」
完璧な角度の、爽やかな笑顔だった。
私は、信じられないものを見た顔をしていたと思う。
顔がいい。淡々としているのに時々優しい。仕事は歯医者。おまけに「僕といたら幸せになれる」なんて真顔で言ってくる。
——これ、絶対遊ばれるやつだ。
過去の男運の悪さをここまで呪ったことはない。優良物件すぎる男には、裏がある。それが二十九年生きてきた私の、数少ない学び。
なのに私は、その本能的に危ないという警告を綺麗さっぱり無視して、心の中でこう決めていた。
——まあ、また騙されるなら、それはそれでいいか。
過去の失敗から何も学んでいない女は、こうしてまた、同じ轍を踏むことを、自ら選んだのだった。




