第1話「スワイプが止まった日」
ベッドに寝転がったまま、私は初めてマッチングアプリを開いた。
きっかけなんて大したものじゃない。何日も同じことを繰り返す毎日に、己の限界みたいなものを感じただけだった。誰かと繋がっていたい気持ちと、誰にも会いたくない気持ちが、いつも同じ強さで競い合っていて、その日はたまたま前者が勝った。それだけの些細な気まぐれだった。
ちなみに一週間、風呂に入っていない。歯も、一週間磨いていない。前髪はもはや前髪という概念を失って、変な方向に固まっている。人間、本気で落ちるところまで落ちると、清潔感どころか「人間らしさ」そのものを手放すらしい。今の私はもはや生ゴミに近い何かだった。
これでも一応、顔だけは整っている自覚がある。本当だ。信じてほしい。大学時代には、母に勧められるまま出たミスコンで、まさかの入賞歴もある。自分でもいまだにあの結果は謎だと思っている。今となっては、履歴書にも書けない黒歴史寄りの栄光だけれど。
その顔面偏差値の高さが、皮肉にも私をここまで突き落とした元凶でもある。「顔がいい」というだけで何人もの男に寄ってこられて、何人もの男に騙されてきた。顔のいい詐欺師に引っかかる才能だけは人一倍あったらしい。
鏡を見れば、脂でぺったりした前髪の下にそれでも整った顔がある。素材はいいのに、手入れを完全に放棄した廃墟みたいな状態。もったいない美人の、成れの果て。それが今の私だった。
アプリを開いた瞬間、目に飛び込んできたのは想像以上に大量のプロフィール写真だった。次々に流れてくる、知らない男の人たちの顔、顔、顔。スワイプという行為にこんなに早く指が慣れるとは思わなかった。慣れというよりただの反射だったのかもしれない。
適当に流し見ていた画面が、ある一枚の写真で止まった。
指が、動かなくなった。
今日、初めてこのアプリを開いてからまだ数分しか経っていない。それなのに、その一枚の写真だけが他のどの顔とも違う質量でまっすぐ目に飛び込んできた。
どタイプ、なんて言葉じゃ足りない気がした。
黒髪マッシュの細身で長身の男の人が、鏡越しに自分を撮った一枚。角度も光の当て方も明らかに計算されている。顎の角度、視線の抜き方、全部が「これが俺のベストアングルです」と主張していた。ナルシスト特有の、迷いのない自撮り。
なのに、なぜか、目が離せなかった。馬鹿げてるのは分かってる。写真一枚で人生が変わるわけがない。分かってるのに、心臓だけが忘れていたはずの動き方を思い出したみたいに大きく跳ねた。
今日一日、何かを「見たい」と思ったのは、これが初めてだった。それどころかアプリを開いて数分で、こんなに強く指が止まるなんて、自分でも予想していなかった。初日からこんな確率で当たりを引いていいものなんだろうか。
登録名は「ロキソニン」。
……鎮痛剤。よりによって鎮痛剤。頭が痛いのか、それとも誰かの頭を痛くさせる自覚があるのか、どっちだ。ネーミングセンスを聞いてみたいような、聞きたくないような。
職業欄は、空欄だった。
「……職業書いてない人、大体地雷なんだよなあ」
と冷静な自分がどこかで囁いたが、一週間風呂に入っていない今の私にそんなことを言う資格などなかった。お互い様である。
自己紹介文は、たった一言。
「運命の人探してます」
なんとも胡散臭い一文だった。……登録名、ロキソニンなのに? 運命とか信じてそうな見た目でもないのに?
鼻で笑ってやろうと思ったのに、うまく笑えなかった。それでもどん底にいる人間ほど、こういう馬鹿げた一言に縋りたくなるというのは本当らしい。
ちぐはぐな感じすら、なぜか気になった。もしかしたらこの人が、私の「運命の人」なんじゃないか——そんな柄にもない根拠ゼロの予感が、灰色の毎日の中に、初めて色を差した。
気づけば、同じ写真を五分近く見つめていた。目を見開いて微動だにせず、画面の中の「ロキソニンさん」を凝視して固まる女。もし今の自分を他人の目線で客観的に眺めたら——真夏の空き部屋、一週間風呂に入っていない女が、暗い部屋でスマホの光だけを浴びながら、見知らぬ男の自撮りをまばたきもせず見つめている図。
どう見ても、事案である。ストーカーの初期症状。アプリを開いてまだ十分も経っていないのに。
でも、止められなかった。
そう思っている間にも、指はもう勝手に動いていた。いいね、いいね、いいね。同じ人に何度も押せるわけがないのに、それでも連打していた。指の筋トレとしては満点だった。
我ながら意味が分からない。今日初めてスワイプした右も左も分からないアプリの中で、いちばん最初に目に入った、いちばん情報の少ない一枚に、ここまで動くなんて。
人生、本当に何が起きるか分からない。
そして、そのことを証明するみたいにこの直後にもその事件は起きた。
通知音が鳴った。
『ロキソニンさんからメッセージが届いています』
早すぎる。いいねを送ってから、まだ三十秒も経っていない。何、この即レス。もしかして張り込んでた?
心臓がまた変な音を立てた。震える指でメッセージを開く。
「いいねありがとうございます」
……以上。
一言だけ。絵文字もスタンプも、句読点すらない。「はじめまして」も「よろしくお願いします」もない。まるでビジネスメールの受信確認みたいな一文。テンションの温度差、氷点下。
浮かれかけていた気持ちが、一瞬でしぼんだ。それでも、なぜか——この温度差のなさが逆に気になった。今まで会ってきた男は、みんな最初だけ愛想が良かった。褒め言葉を並べて、下心を隠しもしなかった。それに比べてこの淡白さは、なんというか逆に新鮮だった。
と、そこでふと我に返る。
——待って。私のプロフィール写真。
自分のプロフィールを慌てて開いてみた。登録の流れで、なんとなく設定した写真だった。中身をろくに確認してすらいなかった。
そこに映っていたのは、今の自分とはかけ離れた二年前の私だった。友達の紹介で一度だけやったサロンモデルの仕事でプロのメイクとライティングとついでに軽い加工まで施された、人生でいちばん盛れている一枚。スマホのアルバムを整理もせず放置していたせいで、そのまま登録画面に残っていたらしい。
今の私はそんな面影は微塵ものこっていない屍と化しつつある二十九歳無職女である。詐欺の被害者だったはずなのに、今度は自分が詐欺の加害者側に回っていた。因果は巡る。しかも、登録初日にして早速。
私がしているのは詐欺だ。れっきとした詐欺である。あの「いいね」を押させたのは、私じゃなくて二年前の私だ。
良心がほんの少しだけチクリとした。
でも——それを上回る勢いで、返信欄に指が伸びていた。
「はじめまして! 連絡ありがとうございます」
良心、そっちのけである。詐欺、上等。人間、生き延びるためなら多少の見栄くらい、平気で背負うものらしい。
送信してから、数分。既読はすぐについた。それから、また一言。
「電話、大丈夫ですか」
え。
心臓が、変な跳ね方をした。文字のやり取りだけでも、こんなに動揺しているのに、いきなり、声。心の準備がまるでできていなかった。
「はい」
食い気味に、そう返していた。既読がつくより早いんじゃないかと思うくらいの速さだった。落ち着け、と自分に言い聞かせる余裕すらなかった。
その一言のあと着信が来た。
『ロキソニンさんから、通話の着信があります』
出るべきか、出ないべきか。一週間人間を辞めていた分際で、まともに喋れるのか。頭の中で、警報がいくつも鳴った。それでも、指は通話ボタンをタップしていた。
「……も、もし、もし」
声が、盛大に裏返った上に、嚙んだ。もしもし、たった四文字すらまともに言えなかった。
「もしもし」
その一言で、全部持っていかれた。
思っていたより、ずっと、低くて、柔らかい声だった。急かすでも、間延びするでもない、耳に心地よい速さで話す。文字だけでは分からなかった、体温みたいなものが、初めて伝わってきた気がした。
こんなに優しそうな声、久しぶりに聞いた気がする。
「あ、あの、その、はい。はじめまして。今日も暑いですね」
聞かれてもいないことまで勝手につっかえながら答えていた。頭では、落ち着いて喋ろうと思っているのに、口がまるで言うことを聞かなかった。
「緊張してますか?」
「し、してないです」
もはや噛んでいる時点で、説得力は皆無である。
「今日、暑かったですね」
「あ、はい。エアコンの効いた部屋にずっといたので、そこまでは……」
部屋から一歩も出ていなかったことは、口が裂けても言えない。
「休みは、いつが多いんですか」
「えっと、今は、平日も休みみたいなものなので……そちらは?」
「土曜日と、日曜日が多いです。あとは、シフト次第で、平日に不定期で」
「へえ、お店とか、そういう感じですか」
「まあ、そんな感じです」
あいまいな返事だった。それ以上、深くは聞けなかった。フリーターっぽくもなく、かといって休みが少なすぎる激務でもなさそうな、絶妙なラインの休日数。職業を聞き出すチャンスだったのに、緊張のせいでうまく踏み込めなかった。
「好きな食べ物とか、あります?」
「あ、えっと……牛乳寒天です。セブンイレブンの」
「牛乳寒天」
「な、なんですか」
「いや、可愛いなと思って」
可愛い、と言われてじわじわと何かが熱くなるのを感じた。本当は、スルメイカも同じくらい好きなのだけれど、さすがに、初対面代わりの電話でそこまで自己開示する勇気はなかった。おっさん趣味だと思われるのは、もう少し仲良くなってからでいい。今は、可愛いポイントだけ大事に温存しておくことにした。
「食べ物の好み、可愛いですね」
「そ、そうですか」
からかわれているのか、褒められているのか、判断がつかなかった。それでも悪い気はしなかった。
特別なことは何一つ話していないのに、その声を聞いているだけで、なぜかずっと聞いていたいと思ってしまう自分がいた。緊張のせいで、途中まで言葉がうまく出てこなかったけれど、それでも電話を切りたいとは、一度も思わなかった。
三十分ほど話しただろうか。時計を見て、思ったより長く話していたことに自分でも驚いた。アプリをダウンロードしてからまだ一時間も経っていないというのに。
「では、また連絡します」
「あ、はい。おやすみなさい」
通話を切る直前、ふと彼が付け加えた。
「木曜、たまに休みなんですよね。俺も」
「え」
それだけ言って、通話は切れた。
私はしばらく、スマホを両手で持ったままベッドの上で固まっていた。
今の、誘いだったんだろうか。それとも、ただの確認だったんだろうか。分からないまま、心臓だけがいつまでも変な音を立て続けていた。
たった三十分の電話だった。それなのに、これから何かが動き出す予感だけは、はっきりと感じていた。
その夜、私は久しぶりに穏やかな気持ちで布団に入った。
何ヶ月かぶりだった。何かに期待して眠りにつくのも、明日が来るのが少しだけ楽しみだと思えるのも。あの淡々とした、それでいて優しい声が耳の奥にまだ残っていた。
アプリを入れて、まだ一日も経っていない。それなのに、こんな気持ちになるなんて自分でも単純すぎて少し呆れた。それでも、久しぶりに感じる、この温かさを、今はただ大事に抱えていたかった。
木曜、何があるんだろう。
そんなことを考えながら、私はいつの間にか、眠りに落ちていた。
メンヘラ、婚活?始めました。
気長に見守ってくれると嬉しいです。




