プロローグ
彼氏が消えた日、私の口座残高はゼロ円になった。
その日、仕事から帰って玄関を開けると、家具家財一式と共に同棲していた彼氏が消えていた。唯一残ったエアコンだけがつけっぱなしで律儀に動いていた。あの猛暑日だったのに、部屋だけがやけに涼しい。せめてもの置き土産のつもりだろうか。要らない。
スマホで口座を確認する。
アプリを開くまでのほんの数秒がやけに長く感じられた。指先が震えている。パスワードを二回、打ち間違えた。頭のどこかでまだ「そんなわけない」と、現実を拒否しようとしている自分がいた。
三回目で、ようやくログインできた画面を開くのが怖かった。心臓が、耳の裏でうるさいくらい鳴っていた。
残高、ゼロ円。
目に入った瞬間、指先からすっと血の気が引いた。喉の奥がきゅっと締まってうまく息が吸えなくなった。何度見返しても、ゼロという数字が消えてくれない。夢だったら覚めてほしいと生まれて初めて本気でそう思った。
勝手に持ち出されたキャッシュカードから、私の全財産はきれいさっぱり消えていた。彼、生活は適当なくせに、こういう手際だけは妙に周到だった。
手持ちは、現在五千円。樋口一葉さん、あなたが最後の希望です。
人間、本当にショックを受けると笑えてくるらしい。私はしばらくがらんとした部屋で「あはは」と乾いた声を出していた。
彼がのめり込んでいたのはオンラインカジノでの大博打だったらしい。全部、後から思えばわかりやすい伏線だった。伏線、回収してくれてありがとう。
その日から、私は少しずつ壊れていった。
会社に行こうとすると涙が出て、病院では「うつ状態ですね」とあっさり言われた。パニック発作というやつも、そのころ初めて経験した。それでも、出社だけは、やめなかった。生きていくには金がいる。
止めを刺したのは、彼が逮捕されたというニュースだった。勤め先の金を横領し、書類を偽装していたことが発覚したのだと、地元のニュースで報じられていた。「あの人の元カノなんでしょ」——そんな噂が、次の日には会社中に広まっていた。被害者のはずなのになぜか恥ずかしいのは私の方だった。
そして逮捕から一週間後、私は会社を辞めた。
実家に戻ったとき、最初に向けられたのは家族の生ぬるい視線だった。
「……お前、馬鹿だなあ」
父は、新聞から顔も上げずにそう言った。
「だから、あの男はやめとけって言ったのに」
姉には、地雷を的確に踏み抜かれた。母だけが何も言わずに、静かに私の部屋の布団を干してくれた。無言の布団、逆に効いた。
それから私は、自分の部屋からほとんど出なくなった。プロ引きこもりへの華麗な転身である。
二十九歳、無職、貯金ゼロ、実家暮らし、前科持ちの元彼。婚期という電車は、とっくに発車していて私はホームで手を振ってる側だ。
本当にどん底の日は、笑う元気すらない。天井のシミの数を何度も何度も数えた。自分という人間が、何の価値もない透明な存在になった気がした。
それでも、なぜか私は、毎晩スマホだけは手放さなかった。誰かと繋がっていたい気持ちと、誰にも会いたくない気持ちが、いつも同じ強さでせめぎ合っていた。
カーテンを閉めた部屋で、スマホの画面だけが光っていた。そんな矛盾を抱えたまま、私はある夜、暇つぶし半分・自暴自棄半分でマッチングアプリのアイコンをタップした。
まさか、その指先一つがこれから先の人生を丸ごと引っくり返すことになるなんて。
その時の私はまだ何一つ知らなかった。




