第9話「無職の娘、詰められる」
付き合って、三ヶ月が経った頃のことだった。
最近、娘の様子がおかしい。
そう家族が思い始めたのは、いつ頃からだったのか、私自身、正確には分かっていなかった。ただ、思い当たる節は山ほどあった。
急に風呂に毎日入るようになった。スマホを片時も離さなくなった。夜中に一人で気持ち悪くにやついていることが増えた。休日に、理由もなく出かけるようになった。母から5000円を貰って歯医者に行った日もあった。
積み重なった「様子のおかしさ」がついに家族会議レベルにまで達したのはある日曜の夕食の席だった。
「乃々香」
父が、箸を置いて改まった調子で切り出した。
「最近、変よ」
母も、珍しく真剣な顔でそう続けた。
「変って、何が」
しらばっくれてみたものの、この時の動揺は隠しきれていなかったと思う。
「スマホばっかり見てるし、なんか浮かれてるし、休みの日もいなくなるし」
姉が、容赦なく箇条書きにしてきた。長女の観察眼、地味に鋭かった。
「もしかして」
父が、重々しく口を開いた。
「変な男に、また騙されてるんじゃないのか」
その一言に、思わずむっとした。
「騙されてない! ちゃんとした人だから!」
「ちゃんとしてるって、何やってる人なんだ」
言い逃れできないところまで追い詰められて、私は観念して白状した。
「……歯医者」
その一言で、リビングの空気が、一瞬にして変わった。
「歯医者?」
父の眉間に、深い皺が寄った。眉間の皺の深さがそのまま疑惑の深さを表しているようだった。
「乃々香。それ、絶対おかしいぞ」
「何が」
「歯科医師なんて、まともな稼ぎのある職業の人間が、無職のお前なんかと普通に付き合うと思うか? 絶対、何か裏がある」
あまりの言い方に、腹が立つより先に、メンタルに来た。地味に傷ついた。無職のお前、のくだりが地味に効いた。ボディブローみたいに、あとからじわじわ効いてくるタイプの傷だった。母のフォローが入った。
「お父さん、それ、乃々香に対して失礼すぎない?」
「事実を言ってるだけだ。乃々香、お前、冷静に考えろ。無職、実家暮らし、貯金なし、前の彼氏には全財産持ち逃げされて、その上メンヘラ気味。客観的に見て今のお前に、選ばれる要素がどこにある?」
父の指の折り方が、なんだかやけに手慣れていた。指を折るたびに、私の人生の欠点が一つずつ数え上げられていく。なんでそんなに言われる必要があったんだよと現実逃避気味に思った。
畳み掛けるような言葉の一つ一つが、容赦なく胸に刺さった。反論しようにも、どれも事実だった。事実だからこそ、余計に痛かった。
——父親の言う通りだ。私、客観的に見たら本当に、何の取り柄もない履歴書だった。職歴、空白。所持金、実質お小遣い制。恋愛遍歴、失敗の見本市。書類選考の段階で即お祈りされるレベルの人材だった。
仕事もしていない。稼ぎもない。過去の恋愛は失敗続きで、心も安定していない。それでも毎日、当たり前のように家族に食べさせてもらって、温かい実家で寝て起きての繰り返しをしている。おみくんに好かれる理由なんて冷静に数えたら片手にも満たない気がした。
自覚してしまうと、余計に何も言い返せなくなった。せめて反論くらいしたいのに、脳内の弁護士が全員ストライキを起こしていた。どうしようもなかった。
「もしかして」
姉が、ひときわ疑わしそうな目でこちらを見た。
「まさか、不倫とか、そういうのじゃないよね」
「違うよ!! なんでそうなるの!?」
その飛躍にだけは、辛うじて声を上げることができた。この家族、揃いも揃って想像力が斜め上すぎる。人のことをサスペンスドラマの容疑者みたいに扱うのはやめてほしかった。容疑者のような目線を向けられるのはもう懲り懲りだ。
「わかんないじゃない。それに、不倫だとしてもあんたそんな事できる立場なの?慰謝料とかどうすんの?」
まるで私が不倫をしていることを確信しているような姉のその一言は、それまでの誰の言葉より静かで、それでいて一番深く刺さった。正論という名の刃物を、家族全員がそれぞれ違う角度から振り回してくる地獄のフェンシング大会だった。
母は、そんな父と姉のやり取りを腕を組んだまま黙って聞いていた。何も言わないその沈黙が、私の情けなさを一番雄弁に物語っているような気がした。喋る家族より、無言の母の方に恐怖を覚えた。
しばらくリビングに気まずい空気が流れた。反論する気力ももう残っていなかった。
その静寂を破ったのは、父の一言だった。
「紹介しなさい」
「……え」
「その、相手を。一度、うちに連れてきなさい。こっちでちゃんと確かめる」
その一言が親心から出たものなのか、それとも単なる出来心だったのか。父自身にも、多分分かっていなかったと思う。それでも、確かめる、という言葉の裏にある意図は明白だった。
「本物の歯医者なのか。本当にお前のこと考えてるのか。それとも、何か企んでるだけなのか。俺が直接その目で見極めてやる」
完全に、刑事ドラマの取調室モードだった。まさか実家のリビングでこんな尋問イベントが発生するとは思わなかった。血は争えないとはよく言ったものだ。
父の言葉に、母は小さく頷いた。姉も、腕を組んだまま「それがいいと思う」と同意した。
三対一。無職で、後ろめたさしかない私に、勝ち目はなかった。というより、勝ち目云々の前に反論できる材料がもう自分の中に一つも残っていなかった。完全論破された後の、静かな敗北感だけがあった。白旗を振り続けている脳内では自尊心が壊れた。
「……分かった。聞いてみる」
しぶしぶ、そう答えるしかなかった。
自室に戻ってから私はしばらくスマホを前に固まっていた。
どう伝えればいいんだろう。「うちの父が会いたいって」なんて重すぎる。それとも、軽く言った方がいいんだろうか。文面を打っては消し、打っては消し、を繰り返した。
結局、無難な一文に落ち着いた。
「あの、突然なんだけど、うちの親が、一度会ってみたいって言ってて……」
送信ボタンを押すのに、いつもの倍くらい勇気が要った。やっぱり指先は震えていた。
「わかった。いつがいい?」
あまりにもあっさりとした返信に、目が点になった。もっと戸惑うとか、身構えるとか、あってもいいんじゃないの。
「え、いいの? 普通に重いでしょ」
「重くない。むしろ、遅いくらいかと」
その一言に、胸のあたりがぎゅっとなった。それでも、素直に喜べる余裕は今の私にはなかった。
スケジュールを二、三やり取りして、来週末に日程が決まった。
決まった瞬間から私の中でまた別の種類の暴走が始まった。家族のことだ。
——大丈夫かな。お父さん、絶対、開口一番から責めるような質問してくるよね。結婚詐欺とか、偽物とか、絶対言い出す。おみくんにフラれたらどうしてくれるんだ。せっかく普通に接してくれてる人を、うちの家族が勝手に容疑者扱いしたらどうしよう——。
考え始めたら止まらないのはいつものことで。おみくんの方はあっさり承諾しているというのに、こちらだけが勝手にパニックの渦に巻き込まれていた。
その夜、私は結局家の掃除の段取りを何度もシミュレーションし、母に「お父さんに変なこと言わせないで」と念押しを五回入れ、姉にも「不倫とか、絶対に言うな」と釘を刺し、それでも足りずに、最終的にはおみくんに「本当に大丈夫? 多分、結構失礼なこと聞かれると思う」というメッセージを送ってしまった。
「大丈夫。気にしない」
その返信を見て、少し気持ちが落ち着いた。それでも、父が本気で「見極めてやる」というモードに入っていることを思うと、不安が完全に消えることはない。
落ち着いたのは、束の間だった。来週までの日々、私がどれだけそわそわし続けることになるかは、この時点では、まだ、想像もついていなかった。




