第10話「疑いから握手までが早すぎる」
当日、玄関のチャイムが鳴った瞬間、私はソファの上で呼吸困難になりかけた。
ドアを開けると、そこにはいつも通りのおみくんが立っていた。きちんとしたジャケット、手には手土産らしき紙袋。ナルシストな自撮りとは違う、程よく整った清潔感のある佇まい。誰だこいつはと思ったのは内緒にしておこう。軽く挨拶を終えて、リビングに通されるなり父が待ってましたとばかりに切り出した。
「まず、確認させてもらいたいんですが」
いきなりの本題だった。もはや、世間話をする気すら父にはないらしかった。もうやめてくれ。
「あなたが、本当に歯科医師だという証拠、何かありますか」
ド直球すぎる質問に、私は横で頭を抱えたくなった。せめてお茶を出すくらいの間は待ってほしかった。
おみくんは特に動じた様子もなく鞄をあさり、財布から1枚のカードを取り出した。
「免許証そのものは、書面での交付になるので、お出しできませんが。これなら」
差し出されたのは、地域の歯科医師会の登録会員カードだった。顔写真、所属クリニックの名前、登録番号まで、きちんと記載されている。
「地域の歯科医師会に登録すると、こういうカードが発行されます。免許証の原本と違って、常に携帯していても問題ないので、こちらの方が証明としては早いかと」
あまりにも準備が良すぎた。しかも、聞かれる前からこうなることをある程度予測していたかのような、淀みない説明だった。効率厨のおみくんらしい用意周到さだった。
父は、カードをじっくりと確認した。裏返したり、光にかざしたりまでしていた。間近で刑事ごっこをしている父を見ると、自分のしていることが急に恥ずかしくなった。
「……本物ですね」
「はい」
あっさりとしたやり取りだった。それでも、父の警戒の色が目に見えて薄れていくのが分かった。それをみたおみくんはここぞとばかりに続けて、姿勢を正して、深く頭を下げた。
「改めまして、高橋裕臣と申します。乃々香さんとお付き合いさせていただいています」
挨拶が驚くほどまともだった。声のトーン、間の取り方、目線の位置、どれを取っても完璧だった。ナルシストな自撮りの人と、本当に同一人物なのか、疑いたくなるレベルの折り目正しさだった。
「乃々香さんの過去について、色々お聞きしています。それでも、僕は、今の乃々香さんと一緒にいたいと思っています。生活面でも、経済面でも、不安がないように、支えていくつもりでいます。」
その一言一言が、リビングの空気を確実に変えていった。父の眉間の皺が、少しずつ緩んでいく。母は、感心したような顔で頷いている。姉に至っても、隣で面白そうなものを見つけたというように、「へえ」と小さく呟いていた。
私だけがその様子を少し離れたところからぼんやりと眺めていた。たぶん顔は死んでいただろう。
——早すぎる。
現金すぎる家族の変わり身の早さに、感心と呆れが同時に押し寄せてきた。
その後の会話は、驚くほどスムーズに進んだ。父の質問攻めはいつの間にか、単なる世間話にすり替わっていた。本当にこの親にしてこの子ありすぎる。
「いや、こんなにしっかりした方だとは思いませんでした」
「本当に、乃々香には勿体無いくらいの方ですね」
姉が、そっと私に耳打ちしてきた。
「……ねえ、これ逃したらまずくない?」
それでも、その場ではそれ以上の展開にはならなかった。おみくんの前で、あからさまな態度は取れない。家族なりの最低限の理性は働いたらしい。当たり前だ。
結局、その日の顔合わせは和やかムード全開で終わった。
玄関先で、家族総出でおみくんを見送った。父は満面の笑みで深々と頭を下げ、母も姉もにこやかに手を振った。玄関に入ってきた瞬間の、あの疑わしそうな目つきはもうどこにも残っていなかった。
車が完全に見えなくなった瞬間、後ろから寒気がして振り向くとリビングの空気が一変した。
三人が、示し合わせたように顔を見合わせた。誰一人、動揺していなかった。むしろ、待ってましたと言わんばかりのテキパキとした空気だった。何があったんだ一体。
「よし」父が、腕を組んで、満足げに頷いた。「あれは、本物だな」「うん、間違いないと思う」母も、あっさりと同意した。家族の決断は早かった。
良いものは良い、悪いものは悪い、それだけのシンプルな判断基準らしかった。
父が、ものすごく真剣な顔でこちらに向き直った。
「乃々香、あの人、絶対に逃がすな」
「いいか、よく聞け。あんな人、二度と現れない。お前の今までの人生を考えたら、これはもう、奇跡レベルの話だ、もはや、天啓でもある。」
「本当よ、乃々香。あなた、もうこれしか生き残る術はないと思って」
姉まで、真顔でこちらの肩を掴んできた。食い込んだ爪が痛い。
「あんた、分かってる? これ逃したら、次、いつまた良い人現れるか分かんないんだよ。年齢的にも、もう猶予ないんだから。あんた、行き遅れなのよ!」
三方向から、圧力が、津波のように押し寄せてきた。
「私の意思とか、おみくんの意思とか、恋愛感情とか、そういうのは……」
「大事だけど、それはそれとして、まず逃がすな。死んでも逃がすな。」
父の一言が、全てを物語っていた。私の気持ちよりも、まず「逃がすな」が最優先事項として扱われている。
半年前、あんなに冷たい視線を向けられていたのが、嘘みたいだった。それはそれで、確かに嬉しい。嬉しいはずなのに、なぜか今、猛烈な疲労感だけが体中に広がっていた。うちの家族はこれが最後のチャンスとばかりに浮足立つ。
どん底から這い上がったと思ったら、今度は家族総出の結婚圧に押しつぶされそうになっている。
私の人生は一体どうなってしまうのだろうか。
最近、レビューとブックマーク、いいねが増えて作者歓喜してます。ありがとうございます。




