第32話「就活、全滅」
「働いてみたら? 健康のために」
その一言が、寝ても覚めても、頭の中で鳴っている。
おみくんは、健康の話だと言った。金の話じゃない、とも先に言った。それは本当だと思う。この人は嘘をつかない。言葉を選ぶのに時間をかける人が、あんなに整理された言い方をしてきたということは、何度も頭の中で組み立ててから口に出したということになる。
それでも、私の頭は勝手に翻訳する。
——このままだと、いつか、見放される。
翌朝、私は九時前に起きた。
自分でもびっくりした。目覚ましもかけていないのに、体が勝手に起きている。開いた瞬間に見たのは、テレビでもコーヒーでもなくて、求人サイトだった。
そこからの毎日は、求人票でできていた。
朝、起きてスクロールする。昼、ごはんも食べずにスクロールする。夕方、洗濯物を丸めるのも忘れてスクロールする。おみくんが帰ってきても、私はスマホを離さない。
「ごはん、どうする?」
「あとで」
「のんちゃん、それ、ずっと見てるけど」
「見てるだけ」
見ているだけ、というのは嘘になる。
私は一つ一つの募集要項を読んでは、そこに自分を当てはめて、そのたびに自分を削っていた。
未経験歓迎。いい。応募できる。
要普通免許。無理だ。持っていない。
明るくコミュニケーションの取れる方。
……暗い人間は、応募したら駄目なんだろうか。
長期のブランクがない方が望ましい、という一文を見つけた日は、そのままスマホを伏せて、三十分くらい天井を見ていた。
短時間勤務可、の下に、扶養内でお仕事したい主婦の方も歓迎、と書いてある。私は主婦でもないし、扶養に入っているのは父の保険証のほうだ。どの枠にも自分がいない。世の中には、いろんな人のための入り口が用意されているのに、私のための入り口だけが、どこにも見当たらなかった。
最初にぶつかった壁は、履歴書。
学歴の欄を埋めるだけなら簡単だった。問題は、その先にある。
職務経歴。志望動機。自己PR。
真っ白な入力フォームを前に、指が完全に止まる。
前職の退職理由を、正直に書くべきなのか。うつで療養していた期間の空白を、どう説明すればいいのか。考え始めたら、頭の中まで真っ白になった。
「一身上の都合により退職」と打っては、消す。
「体調不良のため療養」と打っては、消す。
嘘は書きたくない。でも、本当のことも書けない。前の職場でのことも、その原因になった人のことも、この四角い枠に収まる話じゃない。
一文字も確定できないまま、気づいたら二時間が経っていた。
呼吸が浅くなって、手のひらに、じわりと汗が滲む。久しぶりの感覚だ。この感じを、私は知っている。逃げたら、そのまま元通りになるやつだ。
歯を食いしばって、一文字ずつ埋めていった。
完成までに、丸二日かかった。
自己PRの最後の一文を打ち終えたとき、指が震えていた。たった一枚の紙のために二日。しかも中身は、九割が当たり障りのない言葉で埋まっている。それでも、書き上げた。書き上げたという事実だけは、確かに私のものになった。
やっと出来上がった履歴書を、私は片っ端から送った。
十社。
結果は、全滅。
「今回はご縁がなかったということで」
判で押したような文面のメールが、次々と届く。
一通目は、まだ耐えられた。まあ、そんなものか、と自分に言い聞かせることもできた。
二通目、三通目と続くうちに、少しずつ心が削れていく。四通目からは、通知音が鳴るたびに、胃のあたりがきゅっと縮こまるようになった。
不思議なもので、文面はどれも丁寧なのに、丁寧であるほど刺さる。慎重に検討した結果、と書いてあるたびに、この人たちは私の二日間をちゃんと読んだ上で断ったのだと思ってしまう。
六通目を読んだ夜、私は天井のシミを数えていた。
半年以上前、どん底だった頃の癖だ。もう二度とやらないと思っていたのに、体はあっさり思い出してしまう。一、二、三、と数えていって、七つ目で分からなくなって、また一から数え直す。実家の天井とは、シミの位置も数も違うのに、やっていることは何ひとつ変わっていない。
八通目が届いた日は、画面を見た瞬間、何も考えられなくなって、そのまま布団に潜り込んだ。
私、社会に必要とされてないのかもしれない。
その考えが、頭から離れなくなる。
九通目、十通目と開くたびに、自分という人間の価値が、一枚ずつ剥がされていくような感じがした。
十通全部が不採用で埋まったとき、私は笑うことすらできなくなっていた。
おみくんは、何も聞かなかった。
気づいてはいたと思う。私が朝から晩までスマホを見ていることも、ごはんを残していることも、夜中に起きていることも。この人が、部屋の様子から人の状態を読むのが得意なことは、もう知っている。
それでも、何も言わずに、冷蔵庫に牛乳寒天を補充し続けていた。
四つあったはずの牛乳寒天が、いつのまにか五つに増えている日があった。数え間違いかと思って、もう一度数えた。やっぱり五つ入っている。
一度だけ、寝る前にこう言われた。
「無理は、しなくていいからね」
「してない」
「うん」
それ以上は聞かれなかった。聞かれていたら、たぶん、そこで泣いていた。
この人は、いつもそうだ。踏み込んでこない代わりに、扉の前からいなくならない。
そんな中、たった一社だけ、返信が違った。
面接をさせてください、という一文。
私は、スマホを両手で持ったまま、その一行を五回くらい読み返した。
久しぶりに、心の底から嬉しかった。
必要とされていないと思っていた場所から、一つだけ、返事が来た。それだけのことなのに、削られ続けていた何かが、少しだけ戻ってくる感じがする。
その夜、私は久しぶりに、ちゃんと夕飯を食べた。
「面接、決まったよ」
そう報告したとき、おみくんは「そう」とだけ言って、それから、少しだけ口角を上げた。この人のこういう顔を、私は見逃さない。
このときの私は、まだ、何も知らなかった。




