第29話「一瞬、よぎった後悔」
木曜日の朝、目が覚めたら八時を過ぎていた。
昔は休みの日でも六時に起きていた。車を洗って、論文を読んで、それでもまだ午前中。それがいつからか、目覚ましを自分で止めて、そのまま二度寝するようになっている。
しかも壁を向いて、丸まって寝ている。
背中側には人がいる。正確には、人の足がある。俺の枕の上に片方だけ乗っている。
そっとどかして、起き上がった。
リビングに出て電気をつける。
この部屋は俺の部屋だったはずだ。
ソファの上には洗濯物が積まれている。畳んであると本人は言い張るが、正確には丸められている。その隣に、寝落ちしたときの毛布が、脱皮した跡みたいな形のまま放置されている。
テーブルの上には、コーヒーの空き袋。豆は先週買ったばかりのはずだ。喫茶店に通う回数は減ったが、その分、家で消費する量が増えただけらしい。空になったカップが二つ。片方は昨日の分で、底に輪染みができている。
床には、充電ケーブルが二本、絡まって伸びている。片方は俺のではない。
洗面所を覗くと、俺の櫛の隣に、見覚えのないヘアオイルが立っていた。蓋が開いたままになっている。
冷蔵庫を開ける。
一段目に、牛乳寒天が四つ。俺の飲み物はいつのまにか下の段に追いやられていた。
シンクの下を開けたら、袋が出てきた。
半額シールのついた、レトルトの中華丼。賞味期限は先月で切れている。
これは、俺のだ。
しゃがんだまま、しばらく動けなかった。
そのとき、思ってしまった。
——俺、なんか騙されてるのかもしれない。
自分でも驚くくらい、はっきりした形でそれは浮かんできた。
働かない。起きない。金は水出しコーヒーに溶けていく。小遣いを渡して、飯を作って、歯まで磨いている。夜中の二時に俺を壁まで押しやって、朝五時に泣きながら起こしてくる。昼休みに帰ったら締め出される。裏切り者、と呼ばれる。
条件だけ並べたら、なかなかの話だと思う。
こういうのを、世間ではなんと呼ぶんだったか。
学生の頃、スーパードライマンなんて呼ばれていた。付き合って、別れて、次の日には名前を忘れている。冷たいと言われたけれど、そうじゃない。線を引く場所をはっきり決めていただけだ。
利用されるのが何より嫌いだった。アプリの職業欄を空けていたのもそれが理由になる。
その線をいつ跨いだのか、思い出せない。
試しに想像してみることにした。
のんちゃんがいない生活。
朝、静かな部屋で起きる。ベッドは広い。壁に張りつく必要もない。ソファの上に、丸めた洗濯物は積まれていない。テーブルにカップは一つだけ。床のケーブルは、俺の分の一本になる。
冷蔵庫を開けても、牛乳寒天は入っていない。俺の飲み物が、ちゃんと一段目に並んでいる。
シンクの下には、期限切れのレトルトもない。買ってくる相手がいなければ、半額シールに手を伸ばす理由もなくなる。
診療所から帰ってきて、鍵を開けて、電気をつけて、それで終わり。誰も走ってこないし、誰も泣かないし、誰も俺を締め出さない。
風呂に入れと言う相手もいない。歯を磨いてやることもない。朝五時に叩き起こされることも、二度とない。
——静かだ。
想像の中の部屋は、驚くほど静かで、驚くほど、しんどかった。
そこで、ようやく分かった。
騙されているのかもしれない。それは、そうなんだろうと思う。
ただ、騙されて俺が損をしているかというと、していない。金は減っているのに、部屋はうるさくなって、前より面白い。いない場合を想像しただけで、こんなに嫌になっている。
だとしたら、それはもう騙されているとは言わないんじゃないか。
思い返せば、全部、自分で選んできた。
合鍵を渡したのは、こうなると分かっていたからだ。あのままだと、この人は、どこにも自分の場所がないと思い続けてしまう。だから、先に渡した。
牛乳寒天を買っておくのも、俺が決めた。歯を磨いてやるのも、断ろうと思えば断れる。朝五時に起こされて背中を叩いている時間を、俺は嫌だと思ったことがない。むしろ、あの時間だけは、ちゃんと頼られている気がする。
矯正するつもりでいた。生活リズムを整えて、少しずつ、まともにしていくつもりでいた。
なのに、いま俺は八時まで寝ている。丸まった洗濯物を見ても、何も言わなくなった。冷蔵庫の一段目を明け渡したことにも、明け渡した日を思い出せないくらい馴染んでいる。
矯正されているのは、どっちだ。
分からなくなって、俺はシンクの扉を閉めた。
期限切れのレトルトだけ、ゴミ袋に入れる。それ以外は、どうすればいいのか結論が出ない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
夜中に起きるのも、風呂に入らないのも、一日中横になっているのも、全部、体に返ってくる。それは、俺の仕事の範囲の話だ。ほかのことは目をつぶれても、そこだけは目をつぶれない。
背後で、寝室のドアが開く音がした。
「……おはよう」
ひどい寝癖だ。目も半分しか開いていない。パジャマの裾を踏みかけて、よろけながら、ソファに倒れ込む。丸めた洗濯物の山が、崩れた。
「なんか、あった?」
「なんもない」
「嘘。しゃがんでたじゃん」
見られていたらしい。
「掃除してた」
「おみくんが? 珍しい」
失礼な話だと思う。事実ではあるけれど。
その夜、夕飯を食べ終わったあと、俺はテーブルの上を片付けた。
カップを下げて、空き袋を捨てて、天板を拭く。この家では、しばらく見ていない光景になっていた。
「え、なんで急に片付けてるの」
「なんとなく」
「なんか怖いんだけど」
言い方は、昼のうちに何度も組み立てていた。責める形にならないように。金の話だと思われないように。
「のんちゃん、最近、体調どう」
「……ふつう」
「夜、寝れてる?」
「んー、四時とか」
だろうな、と思う。
「先に言っとくけど、金の話じゃないから」
「うん」
「うちは、俺の稼ぎで足りてる。のんちゃんが稼いでこなくても、なんの問題もない。そこは、ほんとに」
のんちゃんは、クッションを抱えたまま、黙って聞いている。
「ただ、一日中家にいると、昼と夜がひっくり返るでしょ。ひっくり返ると、体はもっとしんどくなる。それで動けなくなって、また外に出なくなる」
「……うん」
「だから、週に二回でもいいから、外に出る用事があったほうがいいと思ってて」
そこで、一度、息を置いた。
「働いてみたら? 健康のために」
言い終わってから、少し、間があった。
のんちゃんは、笑おうとしたみたいだった。口の端は動いたのに、目がぜんぜん笑っていない。
クッションを抱える腕に、力が入ったのが分かる。指先が、生地に食い込んでいた。
「うん。そうだよね」
「無理にとかじゃなくて」
「わかってる」
「本当に、健康の話だから」
「わかってるって」
わかってる、と二回言われた。
二回目の声だけ、少し高い。都合の悪いことを飲み込むときに、この人がいつも出す声だ。
そのときの俺は、ちゃんと伝わったと思っていた。言葉を選んだし、金の話じゃないと最初に言ったし、無理にとは言っていない。
伝え方は、間違っていなかったと思う。
ただ、この人の受け取り方を、俺はまだ甘く見ていた。
その日の帰り、コンビニに寄って牛乳寒天を四つ買った。
半額でもなんでもない。定価だ。
それでも迷わずカゴに入れている自分を見て、ああ、もう終わったな、と思う。
いい意味で。
そう思いながら、その夜、俺は布団に入った。
隣で、寝返りの音が何度もする。
いつもなら、この時間には俺の背中に張りついてくる。今夜はそれがない。壁を向いたまま、規則正しく、寝返りだけを打っている。
声をかけようとして、やめた。
朝方まで、それは止まなかった。




