第28話 「半額シール、抗えない男」
おみくんという人は、そんなに几帳面な人じゃない。
読みかけの雑誌はテーブルに置きっぱなしだし、充電ケーブルは床を這っているし、シンクの下は正直見ないほうがいい。ちゃんと生活感のある部屋だと思う。
それでも、この家がなんとなく整って見えるとしたら理由は一つしかない。比較対象である私がだらしなさすぎるせいだ。
そんなごく普通の人であるおみくんにたった一つだけどうしようもない弱点がある。
黄色い、あのシールだ。
その日も二人でスーパーに行った。
夕方の値引きが始まる時間帯。カートを押しているのはおみくん。
「のんちゃん、これ」
「なに」
「しめじ、半額」
「いる?」
「安い」
「いるかどうか聞いてるの」
会話が噛み合わない。私が答えを待っている間に、しめじはすでにカゴの中にいる。しかも、三パック。
そこからはあっという間だ。
賞味期限が明日までのヨーグルトが、六個。誰が食べるのか分からない大きめの惣菜。二月なのに、なぜか半額になっていた素麺のつゆ。極めつけは、業務用サイズの辛子明太子風味の何か。
「待って。ストップ」
私は、カゴの中身を一つずつ棚に戻していく。
「なんで戻すの」
「食べないから」
「安いのに」
「安いのは分かる。食べないの」
おみくんは、明らかにしょげている。淡々とした顔のまま、眉の角度だけが微妙に下がっていく。この人はこういうときだけ表情が分かりやすい。
「しめじは?」
「一パックだけ許す」
「……三分の一」
「増やさないで」
レジを出るまでの間、おみくんは少しだけ無口になっていた。
問題は、私が一緒に行かない日だ。
その日、私は昼から具合が悪くてずっと横になっていた。夜、玄関の音で目を覚ますとおみくんが両手にレジ袋を提げて立っている。
四つある。
「……なにその量」
「タイムセールだった」
得意げだ。心なしか、いつもより声が弾んでいる。
袋の中から出てきたのは、半額のパン、半額の焼売、半額の冷凍うどん六玉、半額の謎の中華調味料、そして半額の入浴剤。
「入浴剤は食べ物じゃないよね」
「半額だった」
「理由が一つしかない」
呆れる私をよそに、おみくんは鼻歌でも歌いそうな顔で荷物をしまい始める。
そこで、私は初めて気がついた。
この人は買ってきたものを冷蔵庫や普通の棚にしまわない。
シンクの下。洗面所の棚の、いちばん上。寝室のクローゼットの奥のほう。自分だけが知っている場所に少しずつ分けて詰め込んでいく。
ハムスターだ、と思う。
頬袋に詰めてあちこちに隠してそれで満足して寝てしまう。あの生き物とまったく同じ。
事件が起きたのは、その一週間後。
暇すぎて珍しく掃除をしていた私はシンク下の奥から見覚えのない袋を引っ張り出した。
中身は、半額シールがついたままのレトルトカレー。
賞味期限は先月で終わっている。
「おみくん」
帰ってきた本人に、それを差し出す。
「これ、いつの」
おみくんは、しばらくパッケージを見つめている。
「……買った記憶がない」
「自分で隠したんだよ」
「隠してない。保管してた」
「保管したまま忘れてるじゃん」
その後、家中の「保管場所」を、二人で捜索することになる。
洗面所の棚からは、半額のシャンプーが三本。クローゼットの奥からは、去年の秋に買ったらしい栗の甘露煮。私は、床に並んだ戦利品を前に腕を組んだ。
「もう、一人で買い物行くの禁止」
「経済的には得をしてる」
「え?」
「半額で買ってるから、定価との差額分だけ家計は浮いてる」
真顔だ。そして、なぜかその場で電卓アプリを起動し始める。
「待って。じゃあ、期限切れて捨てた分も足して計算して」
おみくんの指が止まった。
しばらく、画面を見ている。それから、そっとスマホを裏返す。
「……次から、気をつけます」
「敬語になってる」
的確に負けを認めるところだけは、いつも通り潔い。
それでも、この人は変わらないと思う。
その証拠に、次の週おみくんはまた袋を提げて帰ってきた。
「見て」
差し出されたのは、牛乳寒天。四つ。全部に黄色いシールが貼ってある。
「半額だった」
「……」
「食べないなら、戻してくるけど」
戻せるわけがない。
私は、無言でそれを受け取って、無言で冷蔵庫にしまう。おみくんが、後ろで少しだけ笑った気配がした。
人のことをハムスターだなんて言えないのかもしれない。
その日から、我が家の冷蔵庫には、常に牛乳寒天が四つ入っている。




