第27話 「締め出し、正当な理由なし」
その日、私は朝から荒れに荒れていた。
うつの波、というやつだった。理由らしい理由はない。ただ朝起きた瞬間からどうしようもない不安と苛立ちが胸の中で渦を巻いている。天気が悪いわけでもないのに心の中だけどんよりとした低気圧が居座っているような、そんな日だった。
出勤の準備をするおみくんの足に私は駄々をこねる子供みたいにしがみついていた。
「行かないで」
「行かないと」
「今日だけ、休んでよ」
「休めない。予約、詰まってるから」
分かっている。分かっているのに、止められなかった。
「私、今日、絶対、一人になったら駄目な気がする。だから休んで」
「気持ちは分かる。でも、俺が稼がないと、生活できないから」
あまりにも正論だった。反論の余地が、どこにもなかった。それでも、頭では分かっていても心がまるで納得してくれなかった。
「お願い、行かないで」
みっともなく玄関で泣きながら縋りついた。
おみくんは、少しの間こちらを見下ろしていた。それから静かに私の腕をそっとほどいた。
「ごめん。行ってくる」
その一言を残して、おみくんは後ろ髪を引かれるような表情のまま玄関を出ていった。
残された私は、しばらく玄関にへたり込んだまま動けなかった。
---
おみくんは、その日診療に集中できなかった。泣きじゃくった私を心配してできるだけ早く帰ろうとしてくれていた。
そきて午前の診療が終わった瞬間いてもたってもいられなくなって昼休み大急ぎで家に戻ることにした。それくらい心配だったらしい。
それなのに、慌てて家を飛び出した反動で合鍵を診療所に置き忘れてきてしまった。
インターホンを鳴らす。
「……のんちゃん、俺だけど」
返事はなかった。もう一度、鳴らす。
しばらくして、ドア越しにくぐもった声が返ってきた。
「……帰ってくるな」
「え」
「この、裏切り者!」
あまりにも理不尽な言葉だった。それでも、その日の私にとってはこれ以上ないくらい、切実な感情だった。あんなに引き止めたのに、振り切って行ってしまった。その事実だけが、頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
「……ドア、開けてもらえる?」
「嫌。合鍵なくしたんでしょ。だったら、入ってこないで」
我ながら、無茶苦茶な理屈だった。それでも、止まらなかった。
---
ドアの向こうで、おみくんはしばらく黙っていた。
怒鳴られるか、それとも、呆れて帰っていくか。身構えていた。それなのに、返ってきたのはいつも通りの静かな声だった。
「……のんちゃん、大丈夫?」
その一言に、胸の奥がぎゅっとなった。
「大丈夫じゃない。おみくんのせいで」
「うん。ごめん」
謝られると、余計にいたたまれなくなった。
「無理に、開けなくていいから。それだけ、伝えたくて」
ドア越しに、そう続けた。
「あと、冷蔵庫の中に牛乳寒天入れておいたから。落ち着いたら食べて」
その一言に、思わず、息を呑んだ。
「……いつの間に」
「昨日、買っておいた。今日渡すつもりで」
こんな状況になるとは、思ってもみなかったはずだった。それでも律儀に買っておいてくれていたらしい。
「じゃあ、また、診療戻るから」
「……ご飯、食べたの?」
ふと、気になってそう聞いた。
「まだ。でも、大丈夫」
「食べてないの!?」
「時間、なかったから」
あっさりと、そう返された。こちらのことを心配して、昼休みの時間を全部使って帰ってきて、結局、自分は何も食べずにまた仕事に戻っていく。
その事実に罪悪感が一気に押し寄せてきた。
「じゃあ、また夜」
そう言い残して、おみくんの足音が玄関から遠ざかっていくのが分かった。
---
一人残された部屋で、私はまたその場に座り込んだまま、動けなかった。
冷蔵庫を開けると、本当に牛乳寒天が丁寧に並べられていた。私の好物をちゃんと覚えていてこんな日のためにわざわざ買っておいてくれていた。
それなのに、自分はその人を裏切り者呼ばわりして締め出した。しかも、その人は怒るどころかご飯も食べずにこちらの心配だけをしてまた仕事に戻っていった。
自己嫌悪が津波みたいに押し寄せてきた。
最低だ。自分が心底、最低な人間に思えた。
---
その日の夜、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、私は居ても立っても居られなくなって玄関まで駆けていった。
靴を脱ぎかけていたおみくんに、勢いのまま抱きついた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
しゃくり上げながら何度も謝った。
「裏切り者とか、酷いこと言って……ご飯も食べずに、心配してくれたのに……」
涙が、止まらなかった。
「私、最低だった。本当に、最低だった」
おみくんは、しばらく何も言わずに、こちらを抱きしめ返してくれた。それから、静かにこう言った。
「最低じゃない」
「最低だよ! あんなこと言って!」
「うつの波が来てる時に、そこまで言えるだけでも、十分だと思う」
その優しい解釈に、余計に涙腺が緩んだ。
「それに」
「それに?」
「のんちゃんが、また笑ってくれるなら。俺はそれで十分嬉しい」
その一言に、私はまた声を上げて泣いた。今度は、罪悪感の涙じゃなくて、安堵とそれでは言い表せないくらいの愛おしさの涙だった。
「ちゃんと、ご飯食べて」
「食べる、今日は」
抱きしめられたまま、私は、しばらくその体温を確かめるように、感じ続けていた。
理不尽に締め出しても、自分のことよりこちらの心配を優先してくれる人。今日という日を通して、また一つ、この人の底知れない優しさを思い知らされた気がした。




